西ローマ帝国(にし―ていこく)は、286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国の東西分割の後に、帝国の西半分に与えられた名称である。西ローマ帝国は3世紀から5世紀までの間、ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治、四分治制)、コンスタンティヌス1世による再統一、ユリアヌスの治世を経て、数度にわたって断続的に存在した。一般的には、最終的な分割となったテオドシウス1世死後のローマ帝国の西側を指す。
テオドシウス1世が、統一されたローマ帝国を支配した最後の皇帝である。395年にテオドシウス1世が身罷ると、ローマ帝国は最終的に分割された。その後476年9月4日に幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位すると、西ローマ帝国が滅亡したというのが公式の説であるが、非公式には、480年にネポス帝が崩御したときとされる。通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって中世の始まりとする。
片割れである東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は短期間の失地回復を果たしたが、西ローマ帝国は復興しなかった。東ローマ帝国はその後、一千年を堪え忍び、ついに1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた。
西ローマ帝国の最も重要な遺産であるカトリック教会に感化されて、新生の好戦的な蛮族の王国が、西ローマ帝国の瓦礫の中から発生し、ついにはカトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用した。徐々にこれら蛮族が、自らをローマの遺産の「真の相続者」に見立てていった。
目次
1 背景
2 反乱と暴動、政治への波及
3 西ローマ帝国における経済の不振(産業の空洞化)
4 3世紀の危機
4.1 軍人皇帝時代
4.2 テトラルキア(四分割)
4.3 コンスタンティヌス
5 再分割
6 最後の分割
7 経済とのかかわり
8 ローマ征服と西ローマ帝国の滅亡
8.1 最後の皇帝
9 テオドリック
10 東ローマ帝国による再統一
11 遺産
12 西ローマ皇帝
12.1 ガリア皇帝(259年-273年)
12.2 テトラルキア(四分治制) (293年-313年)
12.3 コンスタンティヌス朝 (313年-363年)
12.4 王朝無し (363年-364年)
12.5 ウァレンティニアヌス朝 (364年-392年)
12.6 王朝無し (392年-394年)
12.7 テオドシウス朝(394年-455年)
12.8 テオドシウス朝断絶後 (455年-480年)
13 外部リンク
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共和政ローマが版図を拡大するにつれて、ローマに置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間が掛かったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制(クルススプブリクス)で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間が掛かった。このため属州は、共和政ローマの名のもとに、実質的には属州総督によって統治された。
帝政が始まる少し前、共和政ローマの領土は、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、マルクス・アントニウス、レピドゥスによる2度目の三頭政治により分割統治されていた。