蝦夷
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この項目では集団としての蝦夷について記述しています。地域名としての蝦夷については蝦夷地を、小惑星については蝦夷 (小惑星)をご覧ください。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。
目次

1 語源と用字

2 えみし

3 えぞ

4 関連項目

5 参考文献

6 外部リンク

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語源と用字

語源については諸説あり、中に樺太アイヌのアイヌ語で「人」を意味する「encu」と同語源とするものもある。

古代の蝦夷ははじめ「毛人」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音(アイヌ人はモンゴル人から「クイ」ロシア人からは「クリル」と呼ばれた)に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字は東方の異民族(東夷)に対する蔑称である。また、『続日本紀文武天皇元年(697年)12月庚辰条には、越後国(後の出羽国を含む)に住む蝦夷を「蝦狄」(「えてき」)と称している。これは、東夷と同じく北方の異民族(北狄)に対する蔑称に由来していると考えられている。

平安時代後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになった。読みの変化が指し示す集団の変化に対応すると考える説もある。


えみし

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられている。 ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものである。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならない。

「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一アイデンティティーは無かったと解するか、日本との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。しかし、既に文字文化を持っていたイギリスのケルト人と異なり、文字文化を持たない民族集団が統一したアイデンティティーを有することは困難であるため(北米先住民族高砂族)、時代とともに遺恨も薄まり日本人に混血化していった事実が、近年のDNA解析からも判明している。

蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)「愛瀰詩烏 田比人嚢利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽田比毛勢儒」

しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。

5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、 478年順帝昇明2年)倭王武が宋 (南朝)に届けた上表文として以下の記述がある。

「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」

これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することが出来る。

蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、659年(斉明天皇5年)の遣唐使高宗の問答が日本書紀にある。それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。この使者の説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた。しかしこのような生活は史料にみえる他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われる。信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。

7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。658年には阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討っている。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年多賀城を一時陥落させた宝亀の乱伊治呰麻呂789年巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂胆沢城志波城を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。

蝦夷は平時には交易を行い、昆布毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりにを得た。

9世紀に蝦夷に対する朝廷(関西)からの征服活動は、現在の岩手県秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki