藺相如
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藺相如(りんしょうじょ、生没年不詳)は、中国戦国時代の末期に恵文王の家臣。「完璧」や「刎頸の交わり」の故事で知られる。

司馬遷は『史記』の中で、藺相如のことを文武知勇の将と賞している。
目次

1 経歴

1.1 完璧

1.2 繩池の会

1.3 刎頸の交わり

1.4 その後


2 脚注

3 関連項目

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経歴

史記』「廉頗・藺相如列伝」によると、もとは恵文王の宦官繆賢の客人であった。


完璧

趙の宝物「和氏の璧」[1]を巡り、が璧と自国の十五城との交換を申し出てきた。条件としては悪くないが、十五城を渡すというのは口約束で、実質は宝物を要求しているだけである可能性が高い。ただ宝物を渡せば、自ら秦の属国と認めるようなものである。屈辱的であり、諸国にも恥を晒すことになる。 無論そんな気などないが、相手は強国秦、無碍に断れば侵攻の口実を与える。更にこのような交渉に使者として出向くのは虎穴に入るようなことで、誰も使者の任へ名乗り出なかった。 恵文王は困り果てたが、そのとき繆賢が恵文王に「自分の客人に藺相如という知勇兼備の者が居ります」と申し出、彼についての逸話を語った。

あるとき繆賢は罪を犯して恵文王の怒りを買い、処罰を恐れてへ亡命しようとした。すると、食客だった藺相如が「御主人様、何故燕へ逃れるのですか」と聞いてきた。繆賢は「以前に燕王と会ったことがあるが、そのとき燕王は私の手を握って友人になりたいと願ってきた。きっと快く迎えてくれるだろう」と答えたが、藺相如はこれに対し「それは間違いです。燕は弱小国であり、比べれば趙は強大国です。燕王があなたと友になりたいと願ったのは、あなたが強国である趙の王様の寵愛を受けていればこそ。寵愛を失い不興を買った貴方が燕に行っても、燕王は匿うどころか捕らえて送り返すでしょう」と言った。その言のもっともなことに繆賢は狼狽したが、続いて藺相如は「ここはいっそ自ら処刑台に乗り、進んで趙王様に罰を請えば、幸いに許されるかもしれません」と勧めた。繆賢はこの言葉に従い、果たしてその通りに許され、信頼を取り戻したのである。

この話に納得した恵文王は藺相如を呼び、この国難にあたっていかにすべきかを問うた。藺相如は、まず話は受けることで何かあった際の非は秦にあるようにし、使者が居ないのなら自分が秦に出向き、城を受け取れなければ「璧を完うして帰る」(璧を必ず持ち帰るの意、「完璧」の語源)と申し出、交渉役に抜擢された。

藺相如は秦都咸陽へ入り、秦の昭襄王と対面する。そして和氏の璧を渡すが、受け取ったとたん寵姫や群臣に見せびらかし続け、城の話をする気配が無い昭襄王の態度に、城を渡す気が全く無いと判断した藺相如は、「実は小さい傷があるのです。この辺りに……」と近寄って璧を奪い取り、柱の側へ駆け寄った。そして、冠が突き上げる程に髪を逆立てた凄まじい怒りの形相で[2]、「趙では疑う意見が多かったが、趙王様は秦を信じ、5日間身を清め和氏の璧を渡された。この趙王様の信義に対し、秦王様は余りにも非礼で粗雑な扱い。もはや璧も自分の頭もこの柱で叩き割ってくれる」と言い放ち、昭襄王に宝物を受ける際の儀式として5日間、身を清めるよう要求した。秦王はあわててその要求を呑んだが、それでもやはり城を渡す気が無いと見た藺相如は、ひそかに従者に璧を趙へ持ち帰らせる一方、自らは残って時間を稼いだ。

そして5日後、身を清め終えた昭襄王が和氏の璧はどうしたかと問うと、藺相如は「歴代の秦の王において、約束を守った王を聞きません。秦王様に城を渡すつもりが無いように見えたので、既に趙へ持ち帰らせました。十五城を渡せば趙は璧を惜しまないでしょうが、重ね重ねの無礼の償いとして私には死罪を賜りたい」と述べた。藺相如の剛胆さに感嘆した昭襄王は「殺したところで何も得られず、趙の恨みを買うだけである」とこれを許し、璧も城も渡さないということで収まり、藺相如も無事帰国した。胆力と知恵だけを武器に、強国秦に一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子も保ったのである。


繩池の会

紀元前279年、秦から恵文王に繩池(べんち、現河南省?池県)で両国の友好を祝おう、という招きがあった。

しかし、繩池は秦の国内、しかも趙との国境から遠く離れており、万一のことがあっても軍を送って救援することが出来ない。しかし祝宴とあっては、大量の兵を連れて行く訳にもいかない。そもそも秦は、和氏の璧の件でも現れているように信用できない国であり、たびたび趙へ侵攻をしていた。無事帰れるかどうかさえ危ぶまれるところで、恵文王は恐れて行きたくないと言ったが、廉頗などは「行かなければ趙は弱く卑屈だと思われ、秦を更に増長させ、諸侯にも侮れられます」と諌め、藺相如もこれに同意し、それでも渋る恵文王に「私もお供します」と言って決断させた。

恵文王の一行は趙を離れ、繩池へ向かう。この際、三十日で帰国しなければ太子を王として立てて敵討ちをする、と確認するほどの覚悟が必要であり、相当の懸念があったことが伺える。

そして繩池で祝宴が開かれたが、その席で秦の昭襄王は恵文王に対して「趙王殿は音楽がお好きだと聞いている。両国の友好を祝し、瑟[3]を弾いて頂きたい」と要望した。恵文王は已む無く一曲引いたが、その直後、昭襄王は記録官に命じて国史に『趙王が秦王のために瑟を弾いた』と記載させた。

これを秦は趙を臣下扱いし見下そうとしている、と見た藺相如は昭襄王に歩み寄り、?[4]を差し出して、「秦では宴席で?を叩き歌うと聞いています。両国の友好を祝し、叩いて頂きたい」といった。確かに秦にはそのような風習があったが、中原諸国では下品とされる行為であり、また王に命じるとは無礼だと昭襄王は憤ったが、藺相如は全く動じず、「私と秦王様との距離は僅か5歩。私の首を撥ね、その血を秦王様に注ぎましょうか」と、暗に「断るならば、ここであなたを道連れに死ぬ」と脅した。昭襄王は已む無く?を1回叩いた。すかさず藺相如は記録官に命じ、国史に『秦王が趙王のために?を叩いた』と記載させ、「秦王様のおかげで祝宴は盛り上がりました」と喜んだ。

その後、秦の臣が恵文王に「我が王の長寿を祝し、貴国の十五城を我が王に献上してはいかが」[5]と言ったが、すかさず藺相如は「貴国こそ我が王の長寿を祝し、咸陽を献上してはいかが」と言い返した。十五城に対し一城とはいえ、咸陽は秦の首都である。当然ながら無理難題であり、言い出した秦の臣は黙ってしまった。

藺相如は終始この様にして機転を利かせ、常にやり返したので、最後まで秦は趙を格下扱いに出来なかった。趙へ戻る際も警戒を怠らなかったので、秦は手出しできず、恵文王達は無事帰国できた。こうして藺相如は趙王の身を守り、さらに趙の面子も守ったのである。


刎頸の交わり

刎頸の交わりも参照

藺相如はこれらの功績により上卿(大臣級)に任命されたが、歴戦の将軍廉頗は彼の異例の出世を妬み、誰彼構わず藺相如への不満を漏らし「出会ったら必ず辱めてやる」と言い続けた。叩き上げの軍人で、秦の侵攻を防いできた実績と自負のある彼は、家柄も武勲も無く弁舌だけで自分と同格、更に位は上[6]に成り上がったことが気に入らなかったのである。また辱めることも実直な廉頗のこと、実際に行うであろうことは想像に難くない。藺相如はこれを知って、廉頗と会わぬように病気と称して屋敷に篭り、宮中に参内するときも廉頗が居ない日を見計らうようにしていた。

ある日、車で外へ出た藺相如は道で廉頗と偶然会いそうになり、自ら脇に隠れた。その夜、藺相如の従者一堂から折り入って話があると申し入れられた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki