藤原道兼
★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[Wikipedia|▼Menu]

藤原 道兼(ふじわら の みちかね、応和元年(961年) - 長徳元年5月8日995年6月13日))は、平安時代中期の公卿藤原兼家の三男。母は藤原中正女時姫。同母の兄弟姉妹に道隆道長超子詮子がいる。別称は、粟田殿、二条殿、町尻殿。

父兼家の意を受けて花山天皇を唆して出家退位させる。一条天皇が即位すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。兼家が死去すると道兼の期待に反して長兄の道隆が関白となった。5年後に道隆が病死すると、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死した。そのため「七日関白」と呼ばれる。
目次

1 生涯

2 官歴

3 系譜

4 関連項目

//


生涯

藤原北家の藤原兼家の三男として生まれる。雄傑で鬚が多く、狷介な性格だった。

永観2年(984年)8月、花山天皇が即位すると蔵人左少弁となる。東宮皇太子)には父兼家の娘の詮子を母とする懐仁親王が立てられていた。花山天皇は兼家の亡兄伊尹の娘の懐子を母としており、伊尹の子の権中納言義懐が天皇を補佐して朝政を執った。このため、兼家は懐仁親王の早期の即位を望んでいた。

花山天皇は情緒的な性格で、寵愛していた女御藤原?子が死去すると深く嘆き、思い悩むようになった。蔵人として近侍していた道兼は元慶寺(花山寺)の厳久とともに仏の教えを説き、出家を勧めた。道兼がともに出家することを約束すると天皇もその気になってしまう。

寛和2年(986年)6月23日丑の刻、道兼は花山天皇を密かに内裏から抜け出させる。道兼は天皇が途中で足を止めるのをかき口説き、山科の元慶寺まで連れてきた。天皇は厳久に戒を受けて剃髪した。ところが、道兼は「父に告げずに出家すれば不幸になると思い立ちました。父に別れを告げ、出家前の姿を一目見せたいと思います」と言うや、寺から立ち去ってしまった。天皇は騙されたと知るが、すでに手遅れ。一方、宮中では兼家と兄の道隆が東宮の即位の準備を手早く済ませていた。翌朝、義懐と左中弁藤原惟成が元慶寺に駆けつけるが、出家した天皇の姿を見て絶望し、彼らも出家した。

幼い懐仁親王が即位(一条天皇)。外祖父の兼家は摂政に任じられた。兼家の息子たちも昇進させられ、功労者の道兼は同年7月参議となったのを皮切りに、10月には従三位権中納言。11月、正三位永延元年(987年従二位永祚2年(989年正二位権大納言と累進した。

正暦元年(990年)兼家が病んだのち死去すると、後任の関白には長兄の道隆が任じられた。『大鏡』によると、自分は父に功があったのだから、当然に関白を継ぐべきだと望んでいたのに道隆が後継に選ばれたことを甚だ憎み、父の喪中であるにもかかわらず客を集めては遊興にふけったという。

道隆の政権下で、同2年(991年内大臣、同5年(994年右大臣へと進む。

長徳元年(995年)兄の関白道隆が重い病に伏した、道隆は後継の関白に嫡男の内大臣伊周を望むがこれは許されず、4月10日に死去した。4月27日に道兼は関白宣下を受ける。ところが、ほどなく道兼は病になり、5月8日に没した。世に「七日関白」(在任は7日ではない、一説には宮廷に関白として初参内してから7日目であったからだともいう。なお、道兼は関白在任中に1度だけ陣定を開催している)と称された。死後、正一位太政大臣を追贈された。

後世、関東の豪族宇都宮氏が道兼の後裔を称したが、道兼の息子である兼隆より以降公卿になった者はなく、大鏡でも語るべき子孫がいないことが記されている。


官歴

天延3年(975年
1月7日:従五位下に叙位

天元2年(979年
12月2日:侍従に任官

天元3年(980年
昇殿を許される

天元6年(983年
1月27日:弾正少弼に転任

永観2年(984年
1月10日:蔵人に補任8月25日:従五位上に昇叙8月27日:新帝(花山天皇)蔵人に補任10月10日:正五位下に昇叙し、蔵人如元10月30日:左少弁に任官。蔵人如元か?

寛和2年(986年
6月23日蔵人頭に補任7月5日:従四位下に昇叙し、蔵人頭如元7月16日:右近衛権中将に任官。蔵人頭如元7月20日:参議に補任。右近衛中将如元8月13日:美作権守を兼任10月15日:従三位に昇叙し、権中納言に転任11月22日:正三位に昇叙し、権中納言如元

寛和3年(987年
11月11日:従二位に昇叙し、権中納言如元


■毎日更新無料動画!
■未公開流出画像満載

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[この項目を更新]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:12 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki