藤原 良房(ふじわらの よしふさ、延暦23年(804年) - 貞観14年9月2日(872年10月11日))は、平安時代初期の公卿。藤原北家・藤原冬嗣の二男。母は藤原美都子。子に明子、養子に基経。染殿、白河殿と称される。
承和の変で妹の生んだ皇子を立太子させ、その文徳天皇が即位すると朝政を掌握し、太政大臣に昇った。娘を入内させ、生まれた皇子を東宮となし、文徳天皇が若くして崩御して、幼い清和天皇が即位すると人臣最初の摂政となり、後の藤原北家全盛の礎をつくった。
目次
1 生涯
2 系譜
3 官歴
4 関連項目
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生涯嵯峨 冬嗣 ┣━━━━━━┓ ┣━━━┓淳和 仁明===順子 良房 ┃ ┃ ┃恒貞親王 紀静子==文徳====明子 ┃ ┃ 惟喬親王 清和
嵯峨天皇に深く信任された優秀な廷臣であった藤原冬嗣の二男として生まれた。選ばれて嵯峨天皇の皇女源潔姫を降嫁される。
淳和天皇の天長年間(824年-834年)蔵人に補せられ、従五位下を授けられる。妹の順子は東宮(皇太子)正良親王(後の仁明天皇)の妃であり、道康親王を生んでいる。また、良房は父に引き続いて嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子に深く信任されていた。
仁明天皇の承和年間(834年-848年)に正三位に叙せられ、蔵人頭に補せられ、参議を経て権中納言に遷り、陸奥出羽按察使、右近衛大将を兼ねる。
仁明天皇の東宮には淳和上皇の皇子恒貞親王が立てられていたが、承和9年(842年)の嵯峨上皇の崩御直後に起きた承和の変で恒貞親王が廃され、道康親王が立太子される。事件後に大納言に転じて、民部卿、左近衛大将を兼ねた。
承和11年(844年)に道康親王が即位する(文徳天皇)。良房は潔姫が生んだ明子(あきらけいこ)を女御に入れた。承和15年(848年)に右大臣を拝す。嘉祥3年(850年)明子は第四皇子惟仁親王を生み、僅か生後8カ月で直ちに立太子させた。これは先例のないことだった。
嘉祥4年(851年)正二位に昇り、翌年、左近衛大将を兼ね、国史(続日本後紀)を監修する。斉衡4年(857年)太政大臣を拝命した。次いで従一位へ進む。
良房には嗣子がいなかったため、兄の藤原長良の三男、藤原基経を養子とした。また、同じく長良の娘の高子を惟仁親王に嫁がせ、次代への布石も打った。高子は在原業平との恋愛で有名で、惟仁親王より9歳も年上だった。
文徳天皇は第一皇子惟喬親王(母は紀名虎の娘)を愛し、惟仁親王が幼すぎることを案じて、まず惟喬親王を立て、惟仁親王の成長の後に譲らせることを考えたが、良房を憚って決しないうちに天安2年(858年)に崩御してしまい、良房は9歳の惟仁親王を即位させた(清和天皇)。良房は「天下の政(まつりごと)を摂行せしむ」の詔を受け、摂政となり朝政を執った。
貞観8年(866年)に起きた応天門の変では、大納言伴善男を失脚させ、事件に連座した大伴氏、紀氏の勢力を宮中から駆逐する。
清和天皇は幼少期に良房の邸宅で育てられたので、良房を終始深く信任し、同年、再び摂政宣下を受ける。
法制の整備に力を入れて、「貞観格式」を完成させた(格は貞観11年(869年)、式は貞観13年(871年)に公布)。
貞観13年(871年)、准三宮を宣下されるが、それから数ヵ月後の貞観14年(872年)に死去した。正一位を追贈され、忠仁公と諡された。
人臣としてはじめて摂政の座に就き、位人臣を極め、権力は良房の家に集まり、その子孫は相次いで摂関となる。
系譜
父:藤原冬嗣
母:藤原美都子(父:藤原真作)
妻:源潔姫(父:嵯峨天皇)(810年-856年)