藤原 種継(ふじわら の たねつぐ、天平9年(737年)- 延暦4年9月24日(785年11月4日))は奈良時代末期の公卿。
目次
1 系譜
2 経歴
3 長岡京遷都
4 藤原種継暗殺事件
5 参考文献
6 脚注
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藤原式家の祖宇合の孫で、清成の長子。母は渡来人系の秦朝元の娘[1]。子に長男仲成、薬子、二男縵麻呂、四男世嗣、湯守[2]、東子(桓武天皇第十二皇女甘南備内親王の母)がいる。
父:藤原清成
母:秦朝元女
妻:粟田道麻呂女
子:藤原仲成
妻:山口中宗女
子:藤原山人
妻:雁高佐美麻呂女
子:藤原縵麻呂
妻:藤原縄主女
母不詳
子:藤原藤生
子:藤原世嗣
子:井出湯守
子:藤原薬子 - 尚侍
子:藤原東子 - 桓武天皇後宮
『続日本紀』では766年(天平神護2年)に従六位上から従五位下への昇進記事が初出で、同時に叙爵された人物に和気清麻呂がいる。2年後には美作守に、続いて近衛少将・紀伊守・山背守・左京大夫・下総守・左衛士督・近江守を歴任する。光仁天皇即位に尽力した式家の政治的な発言力が上昇するとともに、官位も上昇した。特に叔父である良継・百川の死後は、宇合の孫の中で最年長者であった種継が同家を代表する立場になった。桓武天皇の信任も厚く782年(延暦元年)に参議・式部卿、784年(同3年)には中納言となる。
784年、桓武は平城京からの遷都を望み、「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」[3]とまで評されていた種継は、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱した。桓武の命をうけ藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂らとともに長岡を視察し、同年長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者であった。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。
遷都後間もない785年(延暦4年)旧暦9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。桓武が大和国に出かけた留守の間の事件だった。暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件直前の旧暦8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して配流となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太子であった弟早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。もともと種継と早良親王は不仲であった[4]とされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。
種継は死後、桓武天皇により正一位左大臣が贈られた。
参考文献
黒板勝美編『続日本紀後編』新訂増補國史大系、吉川弘文館、1974年、ISBN 4642000046
黒板勝美編『日本後紀』新訂増補國史大系、吉川弘文館、1974年、ISBN 4642000054
黒板勝美編『日本紀略 第二』新訂増補國史大系、吉川弘文館、1984年、ISBN 4642000623
竹内理三他編『日本古代人名辭典』第六巻、吉川弘文館、1973年、ISBN 4642020063
坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年、ISBN 4642022430
坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』日本の歴史第05巻、講談社、2001年、ISBN 4062689057