藤原(ふじわら)氏は、日本の古代から近世までの貴族。天児屋命を祖と伝える。
平安時代は、本姓の藤原を称するが、鎌倉時代以降は、姓の藤原ではなく、家名(苗字に該当)である近衛、鷹司、九条、二条、一条などを名のり、公式文書以外では藤原とは名のらない。
目次
1 出自
2 藤原不比等
3 藤原氏四家
4 藤原氏北家
5 摂関政治
6 姓から家名へ
7 現代の藤原(氏)
8 藤裔会
9 関連事項
10 外部リンク
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中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族である。源・平・藤・橘のいわゆる四姓の一つであり、藤原氏はその筆頭名門氏族であり、藤氏(とうし)とも略称した。
藤原の姓は当初は死を目前とした鎌足に与えられ、鎌足の死後、中臣氏を率いた右大臣中臣金が壬申の乱で処刑された事もあって、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えた。その後、天武天皇の時代に八色の姓が定められた折に藤原朝臣の範囲を定めたが、その際不比等がまだ若かった事もあって鎌足の従兄弟で娘婿でもあった中臣意美麻呂が不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に氏上となったらしく、それ以外の成員にも不比等が成長するまで暫定的に藤原朝臣が与えられた。そのため、後に不比等が成長し頭角を現すと、藤原氏が太政官を中臣氏が神祇官を領掌する体制とするために、鎌足嫡男の不比等以外は元の中臣姓に戻された。(なお、意美麻呂は中臣姓に復帰後に不比等の推薦で中納言となり、その七男の清麻呂は右大臣まで昇ったため、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」と称されるようになった)。
鎌足の後継者として認められた藤原不比等は下毛野古麻呂らとともに大宝律令を編纂して律令制度の確立に貢献、娘の宮子を文武天皇の後宮に入れる。首皇子(後の聖武天皇)が生まれると、娘藤原光明子(後の光明皇后)を後宮に入れた。なお、『興福寺縁起』には不比等の出生につき「公避くる所の事有り」とあり、大鏡、公卿補任、尊卑分脈には明記され、天智天皇の御落胤であるとする。
不比等の死後、首皇子が皇位に就くと、不比等の4人の男子(藤原四兄弟)と長屋王ら反対派の対立が深まっていった。729年に長屋王の変が起こり長屋王は自害するが、これは四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である藤原光明子を史上初の皇族以外出自の皇后に立てるため、それに反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったといわれている。その後、藤原四兄弟は南・北・式・京の4家に分かれそれぞれ藤原四家の祖となった。731年役人達の投票によって、四兄弟全員が議政官に昇った。これは藤原氏が単に後宮政策のみならず、不比等以来律令編纂に関わってきた実績をもって官僚組織を掌握していった事の証でもあった。
737年に天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死すると、橘諸兄、僧玄?、吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと努めるが、藤原仲麻呂により抑えられる。その後も橘奈良麻呂が仲麻呂排斥クーデターを起すが失敗する。
初めはこの内の京家は振るわずに他の3家が争いつつ朝廷の廟堂に参画する。一時期においては南家や式家が栄えた時期もあったが、政争や一族の反乱で平安時代前期には衰退し、代わって最も栄えたのは北家である。
なお、藤原氏の嫡流については、不比等の長男・藤原武智麻呂を祖とする藤原南家説と兄よりも出世が早かった次男・藤原房前を祖とする藤原北家説の両説があるが、房前が生前元明天皇や聖武天皇の信任厚く特に祖父・鎌足と同じ内臣の地位が与えられたのは事実であるが、当時の慣習として高官の嫡男が父親の存命中に高位に昇る事が憚られていた事を考えると、当初は南家が藤原氏の嫡流であったと考えるのが妥当とされている。
その後4家は盛衰し、平安時代中期から北家のみが栄えた。藤原冬嗣の子藤原良房は清和天皇の外戚となり人臣で初めての摂政となった。皇室と姻戚関係を結ぶことにより他氏を排斥し権力を増強する路線は良房の養子藤原基経に引き継がれ陽成天皇の外戚として、幼帝の摂政、成人してからは関白を務めた。以後、江戸末期まで摂政関白は(豊臣氏を除き)藤原北家のこの系統に限られていくようになる。藤原北家以外で関白となったのは豊臣秀次ただ一人(秀吉は藤原秀吉として任官)であり、五摂家以外からの摂政は例がない。