藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。
目次
1 概要
2 一族
2.1 嫡流
2.2 主な傍流
3 系譜
3.1 北家本流(摂関家流)
3.2 鳥養・永手・楓麻呂流
3.3 魚名流
3.4 真夏流(日野家流)
3.5 長良流(法性寺流)
3.6 良門流
3.7 時平流
3.8 実頼流(小野宮家流)
3.9 師尹流(小一条家流)
3.10 伊尹流(世尊寺家流)
3.11 兼通流
3.12 為光流
3.13 公季流(閑院家流)
3.14 道隆流(水無瀬家流)
3.15 道綱流
3.16 道兼流
3.17 頼宗流(中御門家流)
3.18 教通流
3.19 長家流(御子左流)
3.20 師実流(花山院家流)
3.21 頼長流
4 参考文献
5 関連項目
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祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。
その後奈良時代後期?平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手・魚名が左大臣となるも、永手の嫡男家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱に連座して失脚したこともあり、南家・式家に押されがちの状態にあった。
しかしながら、平城朝以降、大同2年(807年)の伊予親王の変にて南家、弘仁元年(810年)の薬子の変にて式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣(文徳天皇)・良房(清和天皇)・基経(朱雀天皇・村上天皇)と北家嫡流が三代に亘って天皇の外祖父となり、同家の優勢を確立した。以後、北家嫡流が藤氏長者となり、摂政・関白もこの系統から輩出することになった。後に、道長・頼通の代で藤原摂関政治の全盛を極める。
道長・頼通の子孫は五摂家を輩出し公家の最高家格を独占するに至った。また、他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の子孫である。
派生氏族は公家ばかりではなく、道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北を中心に活躍した多数の武家が藤原北家の末裔と称した。