薩摩藩
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薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代薩摩大隅の2ヶ国、日向国諸県郡南西諸島大東諸島及び尖閣諸島を除く)を領有した。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、沖縄県の大部分を服属させた。

薩摩藩は通称で、版籍奉還後に定められた正式名称は鹿児島藩。藩庁は鹿児島城鹿児島市)、藩主は島津氏外様大名で、最高石高(表高で実際は半分程度)は90万石と加賀藩に次ぐ大藩を形成した。

幕末から明治維新にかけて、大久保利通西郷隆盛などの有力政治家を多く輩出し、 第一次世界大戦までの日本政治を支配した藩閥政治では、「薩摩閥」と呼ばれ長州藩と共に有力な政治勢力を形成した。
目次

1 歴史

2 石高の推移

3 歴代藩主

4 支藩(佐土原藩)

5 家臣

6 薩摩藩の郷中制度

7 脚注

8 関連項目

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歴史

島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名戦国大名であり、1587年(天正15年)に豊臣秀吉九州征伐によって豊臣氏に服属、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められた。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の間、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れたことがあり、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムが郷中教育といわれている。この郷中教育は、幕末の下級武士の台頭に大きな役割を果たしたと考えられている。

1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男・家久が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説であるが、藩という概念は幕末の廃藩置県で出来たものであり、定説は家が主体の島津家の領地とされ、さらに古い時代(鎌倉時代)に遡る守護の時代からの領地が継続的に存在している。従って、通説は江戸幕府以降の幕藩体制の強調であり、他藩との均衡を図るために出た説ともいえる。

1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美諸島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされた。その他加増を受けて従来の56万石から72万石の大藩となる(その後石高の高直しなどにより、表高は77万石となる)。

旧来の支配者から転封を経ずに近世大名に移行した薩摩藩は、旧来の支配体制を残し、外城制〔とじょうせい、武士を鹿児島城下に集住させず、領内に分散した外城と呼ばれる拠点に居住させる。天明4年(1784年)呼称を郷と改める〕や門割〔かどわり、農民を数戸ごとに「門」(かど)というグループに分け、門ごとに土地を所有させる〕などの独特の制度を持った。

しかし、多くの郷士を抱え士分の者が全人口の40%(日本国内の士分平均0.5%)を占める上、藩内の土壌の多くが水持ちの悪いシラス台地であったため土地が貧しく、表高は77万石でも実質は35万石ほどの収益しかなかった。かつ台風火山噴火などの災害を受け易い立地であったため、藩政初期から財政は窮迫していた。

さらに、徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請を割り当てられ、特に1753年宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、藩財政は危殆に瀕した。工事を指揮した薩摩藩家老平田靱負は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害している。

第8代藩主・島津重豪は、閉鎖的であったそれまでの藩政を改革し、1773年安永2年)に、藩校造士館と演武館の設立を手始めに、医学院や明時館と次々に学校を設立。『成形図説・百巻』(農業書)など各種図書の編纂事業も行った。また江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍徳川家斉に嫁がせた(ちなみに外様大名から将軍正室を輩出したのは薩摩藩だけである)。これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の政治的影響力は格段に上がったものの、藩財政は更に困窮の度を増した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki