蔚珍鳳坪碑
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各種表記
ハングル:?????
漢字:蔚珍鳳坪碑
平仮名:
(日本語読み仮名){{{hiragana}}}
片仮名:
(現地語読み仮名)ウルチン ポンピョンビ
ラテン文字転写:{{{latin}}}
英語表記:
蔚珍鳳坪碑(ウルチン・ポンピョンひ)とは、1988年1月に大韓民国慶尚北道蔚珍郡竹辺面鳳坪里で発見された、6世紀初頭の新羅の法興王時代の碑石。農耕作業の際に偶然発見されたものであり、すぐには碑石であることは解からずに、同年4月になって古碑石であることがようやく確認されたという。碑石は高さ2.04メートルの四角柱状の花崗岩自然石をほぼそのままに用いたものであり、約400文字が1面にのみ刻まれている。1988年11月4日、大韓民国の国宝第242号(蔚珍鳳坪新羅碑)に指定された。
目次
1 碑文の解釈
2 脚注
3 関連項目
4 参考文献
5 外部リンク
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摩滅の状況が激しくて文字の比定についても確定し切れておらず、また、文章が純粋な中国漢文とは言えず、新羅の固有の文法に制約されたと見られる表記もあるとされる。そのため、細部にわたっての碑文の解釈は未だ一致した見解が得られていないが、「甲辰年正月十五日」との書き出しによる、元は高句麗領であった領域の民への教書的な文言であるところから、法興王11年(524年)の建立であることが確実視されている。6世紀初頭の新羅が高句麗からの支配を跳ね返して北進し、新たに得た領域を自らの勢力化に収めるに当たって、王の視察のあったことや従わないものへの刑罰が記されており、法制の内容を知る上での貴重な資料となっている。
法興王自身は「寐錦王」として現れており、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」[1]による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとも考えられている。
脚注^ 『三国史記』新羅本紀には、法興王の前代の智証麻立干の時代に国号を新羅として君主号を王に定めたことが記されており、王権の伸張の証左であると考えられている。
参考文献
李成市『東アジア文化圏の形成』、山川出版社<世界史リブレット17>、2000 ISBN 4-634-34070-4
『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
外部リンク
⇒学習院大学東洋文化研究所 Web版『学東叢刊3 蔚珍鳳坪碑』
⇒蔚珍郡公式サイト(日本語版)#文化観光#文化遺跡・お寺
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カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 新羅 | 金石文 | 韓国の国宝
更新日時:2008年9月5日(金)15:03
取得日時:2008/11/02 20:57