蔚山沖海戦
蔚山沖海戦で沈没するロシア巡洋艦リューリック (1904年の戦意高揚のためのポストカードより)
戦争:日露戦争
年月日:1904年8月14日
場所:日本海、蔚山沖
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国ロシア帝国
指揮官
上村彦之丞中将カール・イェッセン少将
戦力
装甲巡洋艦4
防護巡洋艦2装甲巡洋艦3
損害
沈没艦なし装甲巡洋艦1沈没
2大破
日露戦争
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蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)は、日露戦争での日本海軍とロシア海軍との間の海戦である。
ウラジオストクを母港とするロシア帝国・ウラジオストク巡洋艦隊の装甲巡洋艦ロシア、グロモボイ、リューリック(以下ウラジオストク艦隊 浦塩艦隊とも)は、旅順の主力艦隊とは別行動を取り、日露戦争開戦後、活発な通商破壊戦を繰り返していた。日本軍は主力艦隊の遊撃部隊である第二艦隊(司令長官:上村彦之丞中将)を派遣し、ウラジオストク艦隊を捜索したが、捕捉できなかった。
6月15日には陸軍兵士を輸送中の常陸丸、佐渡丸が撃沈され、須知源二郎中佐以下の近衛後備歩兵第1連隊等の兵員千名余りが戦死した(常陸丸事件)。さらに7月にはウラジオストク艦隊は東京湾の沖に出現した。
この通商破壊戦は日本の帝国議会でも問題になり、上村中将が濃霧のためウラジオストク艦隊を見失ったと東京の大本営に打電したところ、ある議員は「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」と野次った。民衆は怒り狂って上村の自宅へ投石し、上村を露探(ろたん=ロシアのスパイ)呼ばわりした。
8月10日、旅順からウラジオストクへ向かう旅順艦隊を援護するため、ウラジオストク艦隊はウラジオストクを出港した。上村中将も、ウラジオストク艦隊を捕捉すべく、装甲巡洋艦出雲、吾妻、常磐、磐手、防護巡洋艦浪速、高千穂からなる日本海軍第二艦隊を出撃させた。
8月14日、ウラジオストク艦隊は蔚山沖で上村艦隊と遭遇した。ウラジオストク艦隊は直ちに北へ向けて逃走を始めたため、上村艦隊は急追撃を行った。この追撃戦のさなか、出雲の後続艦磐手に乗っていたあるカメラマンがウラジオストク艦隊を撮影しようと、水平線上にいる巡洋艦を撮ったところ、後で現像してみたら、なんとそれは日本の巡洋艦の出雲であり、同僚に笑われるという喜劇も起きた。
しかし、その位に上村中将は急いで捕捉にかかったのであった。ウラジオストク艦隊は逃走しようとしたが、上村艦隊の砲撃により、まずリューリックが落伍した。残りの2艦はたびたび北走したが、何度も反転して、リューリックの救出に向かおうとし、上村艦隊はこれを追撃したが弾薬欠乏のため断念した。(出雲の弾薬が欠乏したとの報告であったが実際は誤報であった。)
この際、あまりの騒音と喧騒にて、隣の人間とも話もできなかったため、上村中将に弾薬欠乏を伝えようとした参謀が黒板でもって「残弾ナシ」と書いて伝えたところ、上村彦之丞はあまりにも悔しかったらしく、その黒板を参謀から奪い取って床に投げつけるというシーンもあった。その後、日本艦隊は自沈したリューリック乗組員の救助に向かった。
ウラジオストクに逃げ込むことができた2隻も船体自体に大きな損害はなかったものの、上甲板上にあけられた日本軍の砲弾の破孔の修理ができず、係留されたまま放置され、備砲を陸上砲台に陸揚げし、その後出撃することはなかった。これによって、日本の輸送路は旅順に再び封じ込まれた旅順艦隊を除いて、当面の間は脅威は消えたといえた。
この海戦での日本軍側司令官上村彦之丞中将は、『船乗り将軍』と呼ばれた程の猛将であったが、大破し沈みながらもなお砲撃を止めないロシア巡洋艦リューリックを見て「敵ながら天晴れである」と褒め称え、退艦した乗組員の救助と保護を命じた。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日清戦争の伊東祐亨提督とともに、各国海軍の教本に掲載されているという。 カテゴリ: 日露戦争の戦闘 | 海戦
更新日時:2008年11月2日(日)15:09
取得日時:2008/11/12 23:31