蒸気船(じょうきせん)とは、蒸気機関を用いスクリュー・プロペラや外輪を廻すことより推進する船のことである。蒸汽船や汽船ともいう。
一般的に蒸気船といえば、石炭を燃料とする古典的な船のことを指して、蒸気タービン船や原子力による蒸気機関を持つ船は含まれないことが多い。Dampfschiff Die Weser (1817)Dampfschiff Die Weser (1817)
目次
1 歴史(世界)
1.1 最初の蒸気船
1.2 外輪船
1.3 軍艦と商船
1.4 スクリュー・プロペラの登場
1.5 ラトラー対アレクト
1.6 外輪蒸気船の終焉
1.7 蒸気タービンの登場
2 歴史(日本)
2.1 黒船来航
3 21世紀の現在
4 名前
5 有名な蒸気船
6 出典
7 関連項目
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蒸気船の登場は、それまで船舶の主要な地位を占めていた帆船を最終的には実用船としての表舞台から駆逐することになるが、蒸気船も外輪船時代は帆船と優劣を争っていた。実際この間に、蒸気機関を備えた帆船(汽帆船)が多く造られた。
蒸気船と帆船の争いとは別に、港内や狭い水路でのはしけや人車の輸送などを行なっていた曳き船は、それまで人力か、又は扱いにくい帆走で推進されていたが、蒸気機関の登場で速やかに小型蒸気船が導入されていった。
やがて、スクリュー・プロペラの登場によって蒸気船は実用船として主要な位置を占めてゆく。
世界最初の実用的な蒸気船は、1783年にフランス人であるクロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ・ダバンによって作られた。
1788年2月1日に、アイザック・ブリッグスとウィリアム・ロングストリートによって、蒸気船の特許は取得されている。しかし、ロバート・フルトンが、1809年2月11日に改良設計した特許を取得し、商業的に成功した。 ロバート・フルトンは、外輪式蒸気船「クラーモント号」を開発し、1807年8月17日にハドソン川で試運転に成功したことでも知られている。
外輪のアイデアはローマ時代からあった事が確認されているが、人力動力ではオールの方が適していた。
初期の蒸気船は、船の側面か後ろに石炭を燃料としたレシプロ機関の力によって動く外輪、または外車とも呼ばれる大きな推進器を持った外輪船、外車船(パドル・ホイーラー)であった。この外輪船は正しくパドルで水面を掻くために喫水を一定に保つ必要があったが、水深が浅くても走れるため穏やかな河や海岸を航行するには適していた。しかし、外海では波浪や流氷などで外輪が破損したり、駆動軸の接続に便利な船体左右の外輪では左右の推進力が波によって一定に伝わらない、大量に消費する石炭を積む必要がある、といった問題があり適していなかった。その後、給炭地の整備や蒸気機関の改良などによって航続距離が伸びて外海を横断できるようになった。
1829年にフランスのエリアン・ガロウェーは、パドルが常に垂直になるように改良した外輪を考案した。Napoleon (1850)
フランス蒸気戦艦
商船は早い段階で外輪による蒸気船(パドル・スチーマー)へと替わって行ったが、軍艦に蒸気機関が採用されたのが遅かった。船体側面の目立つ場所に大きく露出した脆弱な外輪では敵の攻撃を少しでも受ければ容易に被害を受けて艦の推進手段を失うとされたためや、舷側を外輪が占めると当時の有力な攻撃手段であった大砲の砲門を設ける余地が限られるためであった。軍艦が蒸気機関を採用するのはスクリュー・プロペラが一般に認められてから後となる。
戦闘において外輪蒸気軍艦が片側の外輪を使えなくても、実際に起きた2隻の例で両方ともが速力を減じながらも遜色なく自力航行が可能であった。
商船でも船の中央を蒸気機関に占領されていたため、船倉は前後の空いた空間が燃料の搭載と共に使われた。
18世紀末頃から19世紀初めにかけて、多数のスクリュー・プロペラが考案されたが実用には用いられなかった。
イギリスのフランシス・ペティ・スミスが1836年5月31日にスクリュー・プロペラの特許を取り、「フランシス・P・スミス」号(6トン)を造り2ピッチの長いスクリュー・プロペラでの実験を始めた。偶然水中でプロペラが破損した後で船速が上がり、この後、1ピッチのものに変更して5.5ノットまで速度を上げられた。出資者が得られたため、シップ・プロペラ社を設立して本格的なスクリュー船の建造を始めた。スミスはその後、ラトラー号のスクリュー・プロペラを設計する。
同時期に、スウェーデン人ジョン・エリクソンはスミスの6週間後に特許を取り、翌1837年に船長14mの「フランシス・B・オグデン」号を造ってロンドンのテムズ川で100トンの石炭はしけ4隻を5ノットで曳いて見せた。英海軍高官は水面下で推進軸のための穴を嫌い、直進性が欠けているはず、風に対して不安定という評価によって軍艦へは不採用となった。
翌年の1838年には36トンの「ロバート・F・ストックトン」号を造ったが、イギリスでは進展が得られなかったため、1839年に帆走によって米国へ渡った。ストックトン号はプロペラを2つから1つに改造を受けた後、デラウェア川の曳き船となった。エリクソン自身はその後、米海軍の造船に協力した。
その後、徐々にスクリュー・プロペラを備えた船が造られるが、まだ帆船が主体であり、蒸気船でも外車によって推進されるものが主体であった。1850年の船舶総トン数では帆船9に対して蒸気船1の比率であった。シリウス号
1845年3月、英国海軍はスクリュー・プロペラと外輪の性能比較を行なうため、 スクリュー・プロペラを備えた867トンの「ラトラー」号と800トンの外輪蒸気軍艦「アレクト」号を風向きや帆走併用など条件を変えて競走させた。いずれもラトラーが勝ち、最後に綱引きを行なわせた結果、ラトラーが2.8ノットでアレクト号を曳航したことで、ラトラーのスクリュー・プロペラが有効であると結論付けられた。