蒋済(しょうさい、又はしょうせい、??249年)は、魏の武将。字は子通。蒋秀の父、蒋凱の祖父。
208年、合肥が孫権に包囲され危機に陥った時、大軍が合肥の救援に向かっているという偽情報を孫権軍に流して曹操軍の危機を救った。
曹操は「淮南の住民を移住させたいが、どうだろう?」と、蒋済に質問した。蒋済は「人は郷里を なつかしむもので、移住を喜びません。」と答えた。曹操はこの意見に従わず、淮水・長江付近に住む十数万の人々は呉に逃げこんだ。後に、曹操は蒋済に会った時に「賊を避けさせようとしただけなのに、かえって、敵のほうに駆り立ててしまった。」と大笑いして言った。丹陽郡太守を経て、揚州刺史の温恢の補佐役となった。
曹操が関羽の猛攻を恐れて遷都しようとした時は、司馬懿と共に反対し、「孫権に長江以南の領有権を合法的に認めて、関羽の背後をつかせれば、関羽は撤退するでしょう。」と進言した。曹操はその提案どおりにした。孫権は荊州に攻め込み、関羽を捕らえた。
249年、司馬懿が曹爽に対してクーデターを起こした時、司馬懿に協力している。蒋済は同世代の司馬懿と親友の仲にあり、正史にも彼と司馬懿の会話が記載されているものが少なくない。
曹爽が司馬懿に殺されると、蒋済は曹爽に「殺されることはない」と投降を促していたことから、曹爽を裏切ってしまったことを気に病み、同年に間もなく死去したという。諡号は景侯。
蒋済は人物眼に優れ、鍾会の優れた才能を逸早く見抜いている。文学面にも優れ、「万機論」「三州論」などの著作を多数残している。
ただ、蒋済は文武面に優れた「硬骨漢」と呼ばれながらも、大の酒好きで、酒に酔っては乱暴したり、面会を求めた者を体よく追い返すなどの一面があったため、人から恨まれ、人望は乏しかったという。
その中で時苗とのこんな話がある。蒋済が揚州の補佐官だったとき、寿春の県令であった時苗が会いに来た。 普通名士が来れば約束がなくても会うのが当時の礼儀であったが、この時蒋済は泥酔していて面会できる状態ではなかったので、時苗を門前払いにしてしまった。 激怒した時苗は帰宅すると、その日から木で作った人形に、「酒徒蒋済(酒飲み蒋済という意味)」と書き記し、それを土塀の下に置いて、朝夕公然と弓で射るのを日課としたのだ。 このような行為をされた蒋済ではあるが、別段気にしなかったという。
また相当のおしゃべりであったようで、曹叡から「蒋済がいなければ、こういう話は聞けない」と言われた。 カテゴリ: 三国志の登場人物 | 249年没
更新日時:2008年9月28日(日)13:28
取得日時:2008/10/10 04:14