萩本欽一
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 萩本欽一

本名:萩本 欽一
生年月日:1941年5月7日(67歳)
出身地:東京都台東区
事務所:浅井企画
活動時期:1964年 - 現在

萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年5月7日 - )は、日本コメディアンタレントである。日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズ監督、司会者、演出家としても活動している。
目次

1 概要

2 来歴

2.1 コント55号以前

2.2 コント55号

2.3 視聴率100%男

2.4 休養後

2.5 欽ちゃん球団


3 その他

3.1 チャップリンとの面会

3.2 結婚報道と家族

3.3 親族

3.4 エピソード


4 出演作品

4.1 テレビ(単独での担当番組)

4.2 ラジオ

4.3 アニメ

4.4 映画

4.5 CM

4.6 ゲーム


5 著書

6 パジャマ党

7 関連項目

8 脚注

9 外部リンク

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概要

東京市浅草区(現:東京都台東区)出身。身長166cm、体重65kg。血液型A型。駒込高等学校卒業。浅井企画所属。

大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる。その他の愛称は「萩モー」「萩」など。また、彼の番組や舞台から育ったいわゆる欽ちゃんファミリーからは「大将」と呼ばれている(ビートたけしが弟子たちから「殿」と呼ばれているのと同様である)。ゴールデンゴールズの選手からは「欽督」と呼ばれている。

1970年代1980年代に、「なんでそーなるの!」というギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、さらに素人および素人っぽさを残す才能を開花させるなど活躍した。「どっちらけ」、「バンザーイなしよ」等今も語り継がれるギャグも多い。現在ごく普通に使われる「ウケる」(ややウケ、バカウケ等)という言葉も、最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったと言われている(芸人言葉を一般にも広めた)。「天然」「天然ボケ」を初めて使ったのも彼である(ジミー大西に対して。2007年10月24日「明石家さんちゃんねる」内)。


来歴


コント55号以前

幼い頃から裕福な家庭で育っていたが、父親の事業の失敗で極貧生活を強いられる。

極貧の生活を抜け出したい萩本は、映画で“面白い人が面白いことをしてお金を貰っている姿”を見たことがきっかけで中学卒業と共に芸人を目指す。浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られる。
高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、「だめだったらウチにおいで」という言葉をきいた事で寸前で入門することを取りやめ、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。

東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼等の大師匠筋である浅草の首領こと深見千三郎ビートたけしの師匠)からも薫陶を受け、大いに可愛がられる(もっとも、テレビ進出後に世間へイメージが良くないと判断し、浅草ストリップ劇場***行の過去を隠蔽し、全く浅草を避けるような行動に走る萩本を見て、深見は『萩本の野郎恩を忘れやがって』と萩本に怒りをぶつけていた)。

入団当時、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい。」と言われて落ち込み諦めようとした際、池が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっと居ていいよ。」と萩本を引き止めた。その後、その演出家から「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ。」と池が言っていたことを知らされる。さらに、その演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ。」と言われ奮起。その後、誰も居ない劇場早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すなど才能を努力で補うために必死になった。

その後、父親の家が火災になり、萩本は父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki