萩原 健一(はぎわら けんいち、本名・萩原 敬三、1950年7月26日 - )は、日本の俳優・歌手。埼玉県与野市(現:さいたま市中央区)出身。ニックネームは「ショーケン」。由来はデビュー前の不良仲間、ダイケン、チューケン、ショーケンから。元ザ・テンプターズ、PYGのリード・ヴォーカル (PYGは沢田研二とのツイン・ヴォーカル)。血液型O型。
目次
1 来歴
2 作品
2.1 アルバム
2.2 シングル
3 出演
3.1 ドラマ
3.2 映画
4 書籍
5 関連項目
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埼玉県大宮でスカウトされ、ザ・スパイダースの弟分バンドザ・テンプターズのヴォーカリストとしてデビュー。「神様お願い!」「エメラルドの伝説」など次々とヒット曲を飛ばし、グループサウンズが生んだスターとしてザ・タイガースのジュリーこと沢田研二と人気を二分する。
解散後井上堯之、大野克夫、沢田研二、岸部一徳ら実力者を揃えた布陣でPYG(ピッグ)を結成する。各種ロックフェスティバルやテレビ出演などもこなしたが、渡辺プロサイドの「あくまでメインはジュリー」といったスタンスに合わなかったことや、音楽面での正当な評価を得られなかったことなどへの苛立ちから、音楽活動よりも映画監督を志すようになる。
1972年に製作された松竹映画「約束」の製作現場に、助監督として参加。しかし元の主演俳優が降板してしまった事を受けて、急遽萩原が代役に抜擢される。
「約束」での岸惠子との共演は、それまでの「アイドル」としての認識を一変させるほどの高い評価を得、これを機にPYGの活動を続けながら俳優へと本格的に転身。TVドラマ「太陽にほえろ!」の初代新人刑事=マカロニ役でその人気を決定付ける。(井上尭之バンドの起用やその後同番組の代名詞となった新人刑事の殉職は萩原のアイディアによるもの)
1972年12月をもって音楽活動を停止(これによりPYGは事実上解散)。1974年には名匠・神代辰巳 とのコンビによる映画「青春の蹉跌」でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。続いて日本テレビ系の伝説的ドラマ「傷だらけの天使」、倉本聰脚本の名作「前略おふくろ様」と連続してドラマ史に残る作品へ出演した。既成の枠組みから完全に外れた強烈な個性と存在感、その圧倒的な感性の鋭さをもって当時シラケ世代と呼ばれた若者の間でカリスマ的な存在となる。また菊池武夫のMEN'S BIGI(メンズビギ)をはじめファッションリーダーとしても絶大な支持を得た。
1975年には初のソロアルバム「惚れた」をリリース。これをもって音楽活動を再開し、「お前に惚れた」「大阪で生まれた女」等のヒット曲を背景にライヴ、アルバム制作と八面六臂の活躍を見せる。特にライヴパフォーマーとしての評価は高く、柳ジョージ&レイニーウッドがバックを担当したライヴ盤「熱狂雷舞」(1979年)、マザー・テレサの慈善活動に共感しインドはカルカッタでチャリティコンサートを行った「Shanti Shanti」(1983年)、高橋伴明を撮影監督に迎えた日本ロック史上屈指のライヴフィルムとの誉れ高い「Andree Marlou Live」(1985年)等はその到達点として記憶されるものである。
俳優としても脚本家・橋本忍直々の指名を受けての松竹映画「八つ墓村」(1977年)や黒澤明の「影武者」(1980年)など話題作に出演。徐々に追いつめられてゆく誘拐犯を熱演した「誘拐報道」(1982年/モントリオール世界映画祭審査員賞)、作家・連城三紀彦 が萩原をモデルにしたという直木賞作品を自身で演じた「恋文」(1985年/日本アカデミー賞優秀男優賞)など数多くの名演を残し、故・松田優作をはじめ後続の俳優に大きな影響を与えた。
しかし1983年、大麻不法所持にて逮捕され、1年間に渡って全ての活動停止を余儀なくされる。復帰後も俳優業と平行して音楽活動を行い「愚か者よ」等のヒット曲を出すが、1990年以降音楽製作とは距離を置き俳優業をメインに活動を行うようになる。
「美味いんだなぁ、これがっ」のキャッチフレーズでおなじみサントリーモルツのCMや東芝日曜劇場「課長サンの厄年」の好評をうけて1990年代は主に普通の父親像を演じることが多くなり、反逆児的イメージを求める従来のファンを戸惑わせた反面、新たなファン層を獲得。山口智子、室井滋と共演した「居酒屋ゆうれい」(1994年/報知映画賞・高崎映画祭主演男優賞)、15%を超える高視聴率をマークしたドラマ「外科医柊又三郎」(1995年)とヒット作が続いた。