菊花紋章(きくかもんしょう、きっかもんしょう)とは、菊の花をかたどった家紋の総称。単に菊紋とも、同じ菊紋である菊葉(きくのは)と区別するために菊花紋(“きくかもん”・転訛で“きっかもん”)ともいう。156以上の種類がある。
目次
1 概要
1.1 表記のされ方
2 皇室・皇族の菊紋
2.1 戦前
2.2 戦後
3 菊花紋章の用いられている例
4 菊花紋章を意匠して使用している例
5 関連項目
6 外部リンク
7 脚注
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菊は、奈良時代末期に、唐代の中国から日本に、当初は薬草として渡来し、後に観賞用になったと考えられている。文学上は、古今和歌集、源氏物語などから登場する。平安時代には、陰暦9月を菊月と呼び、9月9日を「菊の節句」「重陽の節句」とし、菊花酒を飲む「菊花の宴」「菊花の杯」で邪気を払い、長命を祈った。菊文様も、吉祥文様として、好んで装束に用いられた。
鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着した。
江戸時代には幕府により葵紋とは対照的に使用は自由にされ一般庶民にも浸透しこの紋の図案を用いた和菓子や仏具等の飾り金具が作られる等各地に広まった。
菊花紋は古くから、武士や武家の家紋、店舗の商標として豊富な種類が図案化され、変種も多い。花弁により十菊(じゅうきく)や十二菊(じゅうにきく)、中央にがくが見えるものを裏菊(うらきく)、輪郭を浮かせたものを陰菊(かげきく)、その他、菱菊(ひしきく)や尾形光琳の描く菊を図案化した光琳菊(こうりんぎく)、半分に割れた割菊(わりぎく)や半菊(はんぎく)、その半菊の下に水の流れが描かれた菊水(きくすい)などがある[1]。明治時代前後には、函館の佐幕派政権が象徴として紺地に十六八重菊に赤い七芒星の旗を用いている。
菊紋の名称を表す場合、例えば、花の場合では10の花びらがあるのなら、十菊と呼ぶ。12なら十二菊、16なら十六菊である。菊が複数重なっているのであるなら○重菊(八重・九重など)である。表を向いているものは表菊であるが、単に○○(花びらの数)菊と表記することが多く特に裏を向いたものを裏菊と言う。16の花びらで裏を向いた八重菊であるのなら十六八重裏菊となる[2][3] 。特に決まりはなく、文献により表現の仕方が違い、とりわけ皇室・皇族関係の紋には、詳しく花びらの数に弁や葉(十六弁(太政官布告[2])・十六葉(皇室令))などの単位がつけられることがある。
菊紋の内、八重菊を図案化した菊紋である十六八重菊(十六弁八重表菊・十六葉八重表菊)は、日本の天皇と皇室を表す紋章である。俗に「菊の御紋」とも呼ばれる。親王などの皇族はこの紋の使用が明治2年の太政官布告を以って制限され、大正15年の皇室令7号13条発布を経て十四裏菊や十六裏菊に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や十六八重菊を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)を各家の紋としている。
十六八重菊が公式に皇室の紋とされたのは、1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第802号による。親王家の菊花紋として十六葉の使用を禁止し、十四葉・十五葉以下あるいは裏菊等に替える事とした。また、1871年(明治4年)6月17日の太政官布告第285号で、皇族以外の菊花紋の使用が禁止され、同第286号で、皇族家紋の雛形として十四葉一重裏菊が定められた。その後、1926年(大正15年)に制定された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)第12条に「天皇太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃ノ紋章ハ十六葉八重表菊形」と定められ、第13条に「親王親王妃内親王王王妃女王ノ紋章ハ十四葉一重裏菊形」と正式に定められている。
1867年(慶応3年)3月28日の太政官布告第195号で、提灯・陶器・貢物等に菊紋を描く事を禁止し、1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第803号で、社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺[4]を除き一切の使用が禁止された。その後、徐々に社殿の装飾や幕・提灯に菊紋の使用を許され、1879年(明治12年)5月22日の太政官達第23号で、一般の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用する事が許されている。
菊は「菊花紋章」から皇室の代名詞とされ、幕末の流行り歌に「菊は咲く咲く、葵は枯れる」と歌われている[5]。