荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ、1735年1月21日 - 1762年5月21日)は李氏朝鮮の第21代王英祖の次男。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ)とも呼ばれる。名は?。字は允寛。号は毅斎。母は映嬪李氏。妻は洪鳳漢の娘、恵慶宮洪氏。正祖の父。
2歳で世子に冊立され、10歳で恵慶宮洪氏と結婚した。少論の学者たちから学問を学び、朝廷を掌握した老論と対立した。1749年、英祖を代理して政務を処理するようになると、老論は貞純王后(英祖の妃)とともに英祖に讒言し、世子をおとし入れた。英祖との葛藤で荘献世子は精神を病むようになったと「恨中録」(恵慶宮洪氏の随筆)には記録されている。
1762年、老論が糸を引いた羅景彦が世子の非行を英祖に奏上した。英祖は羅景彦を死刑に処する一方、世子を廃して米びつの中に閉じこめ、世子は8日後に飢死した。後に英祖はこれを悔やんで「思悼」と追諡し、1777年には正祖が「荘献」と追尊した。また現在のソウル市東大門区の梨峰山にあった墓を水原に移した。1899年、玄孫である高宗が「荘祖(チャンジョ)」の廟号と「懿皇帝」の諡号を追尊した。などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
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更新日時:2008年4月15日(火)13:04
取得日時:2008/08/21 14:13