茶阿局(ちゃあのつぼね、? - 元和7年6月12日(1621年7月30日))は、徳川家康の側室で松平忠輝、松平松千代の母。名は「八」。法名は朝覚院。
茶阿局は、初めは遠江国金谷村の鋳物師の後妻となり、娘を生んでいる。しかし、茶阿局が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生する。茶阿局は3歳になる娘を連れて浜松城に駆け込み、家康に代官を訴え、代官は処罰される事になった。この件が契機で家康は彼女を側室にし、寵愛するようになる。茶阿局は聡明であったため、家康の寵愛厚い側室となり、奥向きの事を任され、強い発言力と政治力を持つようになったとされる。彼女は故郷の金谷村周辺の寺を保護し、寺同士の紛争の解決にも尽力した。「能満寺寄進状」などの史料が現存している。
茶阿局は天正20年(1592年)に辰千代(後の松平忠輝)を、文禄3年(1594年)に松千代を出産する[1]。松千代は早世したが、忠輝は慶長7年(1602年)に元服し、信濃国川中島十四万石を与えられた。茶阿は忠輝が川中島十四万石の大名になると、娘婿・花井遠江守吉成と甥・山田隼人正を忠輝の家老にしている。慶長11年(1606年)、忠輝は伊達政宗の長女五郎八姫を正室として娶っている。
忠輝はその後、さらに越後国高田七十五万石を与えられた。しかし、彼は粗暴な所があり、大坂夏の陣では出撃の時期を逸し、戦功を立てられず、さらに徳川秀忠直属の旗本2人を彼の家臣が殺害し、その犯人に身代わりを立てて家康を激怒させてしまった。家康は死の1ヵ月半前、茶阿局を枕元に呼び寄せ、涙ながらに忠輝の不品行を諌めたという。その際、彼女は返す言葉もなく、打ちひしがれて涙を流し、しばらくは局に帰れぬほどの痛ましさだったという。
その後忠輝は、元和2年(1616年)、兄の徳川秀忠により改易された上、伊勢に流罪になった。茶阿局は、元和7年(1621年)6月に病死した。墓は宗慶寺(東京都文京区小石川)にある。
既述のように、一般的に彼女は鋳物師の後妻であったが夫が代官に殺され、家康に訴え出たところを見初められて側室になったとされる。この話は「東曜婦徳弁」[2]、「以貴小伝」などによる。
しかし青木昆陽がまとめた「諸州古文書」や「山田文書」、「津軽藩旧家伝類」によると、茶阿局は金谷村一帯を支配していた地侍山田氏の出身で父は山田八左衛門という旨が記述されている。現地には彼女が幼少の頃に金谷村の寺洞善院の住職から手習いを受けていたこと、後年その恩に報いるために洞善院へ梵鐘を寄進しているという伝承が今も残っている。また、平戸のイギリス商館長(カピタン)リチャード・コックスの日記に、改易された忠輝が配流される道中でこの地で「叔父の家に泊まった」という記述がある。また、彼女が花井氏に嫁いで離縁された過去があること、家康の側室になるにあたって地元の更に有力な武士河村家の養女になったことが記録に残っている(ただし没落して鋳物師の妻となっていた可能性は残る)。
茶阿の実兄・山田上野介は石田三成に仕え、重臣となっていた。佐和山城が落城した時、上野介は三成の父や兄と共に自刃したが、息子の山田隼人正(妻は三成の長女)を脱出させており、親戚の孝蔵主[3]は茶阿局のもとに送り届けた。茶阿はこの甥を息子・忠輝の家老にして取り立てた。
補注^ 天正20年に辰千代、松千代を双子で生んだという記録もある
^ 弁は旧漢字で表示できなかったもの
^ 孝蔵主は三成とは二重の縁戚であった上に、上野介や茶阿局とも親類であった。彼女の俗姓は「河副」だが、その本姓は「山田」である。[要出典]
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更新日時:2008年8月15日(金)06:24
取得日時:2008/09/03 02:22