若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、北陸道に位置する。現在の福井県南部に当たる。若州(じゃくしゅう)と呼ばれる事もある。延喜式での格は中国、近国。藤原宮時代の木簡には、「若佐国」と表記されている。
目次
1 歴史
1.1 古代
1.2 中世
1.3 近世・現代
2 国府・一宮など
3 守護
3.1 鎌倉幕府
3.2 室町幕府
4 国司
4.1 若狭守
5 郡
6 関連事項
7 外部リンク
8 出典
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律令制で統一国家が成立する前の若狭地方は、若狭国造や角鹿国造の領土だったと言われており、日本書紀には若狭国造やツヌガアラシトの記述がある。しかし、4世紀後半にはヤマト王権の支配下にあった。
ヤマト王権の支配下に入ると、7世紀に若狭国が設置された。当初は遠敷郡と三方郡から成ったが、 825年(天長2年)7月10日 (旧暦)に、遠敷郡の西部が大飯郡として分立して、以後は3郡となった。
奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国 (みけつくに)」に該当すると推定されている。奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来する祭である。平安時代から江戸時代まで、若狭地方は京都の外港として発展した。
鎌倉時代には若狭国は北条氏が守護職を務めていたが、鎌倉幕府と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の一門である斯波氏など、その時代時代の室町幕府の実力者か、それに連なる人物が守護職を得ている。室町時代初期の一色範光以降は一色氏が世襲するようになるも、一色義貫が殺害された後は若狭武田氏が代わって守護となり、丹後に拠点を移した一色氏と激しく対立した。戦国時代若狭武田氏は将軍家や管領細川氏の信任を得て勢力を保つも、永正の錯乱以降の畿内の戦乱と共に衰退の色を深め、一族間の内乱の末、越前朝倉氏に滅ぼされてしまう。その朝倉氏も尾張より台頭し畿内を席捲する勢力となった織田氏に滅ぼされる。 織田政権において、若狭国は織田信長配下の丹羽長秀が支配し、旧武田氏の被官の指揮をした。本能寺の変の後、織田信長に代わって豊臣秀吉が政権を握ると(豊臣政権)、若狭国は山内一豊などの秀吉の子飼いの大名が治めるようになる。
江戸時代になると、若狭地方は小浜藩の領土となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、敦賀、小浜は海運の一大拠点として盛えた。又、小浜と京都を結ぶ国道367号が「鯖街道」と呼ばれているように、江戸時代には特に鯖の水揚げが多かった。
幕末になると、水戸を本拠地とする天狗党が京都を目指して蜂起したが、敦賀に逃れた天狗党員は皆殺しされた。
明治維新を迎えると、1871年8月29日の廃藩置県後、同年12月31日には、旧若狭国に敦賀郡・今立郡・南条郡を加えて敦賀県を形成した。その後の1873年1月には、今立・南条を除く嶺北で構成された足羽県を編入し、敦賀県は、現在の福井県と同じ県域となった。
1876年8月21日には敦賀県が分割され、若狭地方は滋賀県に編入された。滋賀県となった4年半後の1881年2月7日には、旧若狭国を含む嶺南4郡は滋賀県から分離されて、福井県に編入された。突然このことを知らされた人々の中から遠敷郡の有志と、福井置県と同時に堺県の大阪府併合が布告される中、嶺南分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。