臼(うす)とは、小麦などの穀物や他の植物質、鉱物などを粉末にする木製、或いは石製の道具である。碾き臼と搗き臼の2種類があり、碾き臼は大きくサドルカーンとロータリーカーンに大別される。
目次
1 碾き臼
1.1 サドルカーン
1.2 ロータリーカーン
1.2.1 碾
2 搗き臼
2.1 碓
3 関連項目
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碾き臼は、主に石製で、二つの石などを磨り合せて粉砕を行うものを指す。
二枚の円板を重ねて、片方を回転させるロータリーカーンと、石板の上で石塊を往復させるサドルカーンに大別される。
サドルカーン この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
西南アジアで小麦の栽培が普及し、小麦を粉にするために発明された。
当初は人力で為され、次に牛馬の力を利用し、そして中央アジアで川の流れを利用する水車で石臼を回す水臼が開発された。水臼は、人類が手にした最初の自然の力を動力として使った機械と言える。カール・マルクスは『資本論』の中で、「全ての機械の基本形は、ローマ帝国が水車において伝えた。」「機械の発達史は、小麦製粉工場の歴史によって追求できる」と、述べている。
碾(てん、「碾子」とも)は、中国で発達した碾き臼の一種で、輪石(ローラー)を回転させて精米や製粉を行った臼である。中国では、粉食の習慣発生が意外と遅く、しかも稲米や豆類で稀に行われる程度であった(小麦の伝来は前漢、その普及は唐とされている)。このため、古くは磨と呼ばれる今のすりばちのようなものであった。このため、磨から改良されたと見られる碾の記録も後漢末期が最古のものである。やがて、磨や碾に改良が加えられて、水力を用いた水碾(すいてん、後述)や小麦の製粉に優れた磑(がい)、稲の籾揉み用の?(ろう、磨の間に竹の歯を挟み込んで籾を砕いて中身だけを最下層に落とした)が生まれた。
碓(たい、からうす、ふみうす)は、中国で発達した搗き臼の一種で、梃子の原理などを利用して杵を動かして精米や製粉、餅つきを行った機械仕掛けの臼であり、一般的には杵の先端部分を足で踏んで杵を動かす。有史以前に日本にも伝来し近年まで使われていた、東南アジア等にも広く普及し使われている。
また、後漢時代には河川などの水を利用して精米を行う水臼と同じ原理の水碓(すいたい)と呼ばれる大型の碓も利用された。水碓は大量の穀物を精製できるために、権力者の中には水碓を用いて自分の土地の穀物のみならず他人の穀物の精製も受け持って(あるいは水碓そのものを貸し出して)利益を得るものもいて、一種の財産となった。
西晋の時代に河内太守となった劉頌が同郡には公主(同郡は晋皇室(司馬氏)の故郷で皇族の封地が多い)が勝手に水碓を設けて水路を切り開くために一般農民の灌漑の妨害になっていると皇帝に訴えてこれらを全て壊したという(『晋書』)。
だが、後に碾き臼である水碾(碾を参照)の要素を加えて製粉も可能とした碾磑(てんがい/みずうす)が登場するようになるとその害はますます激しくなった。碾磑の初期のものは既に後漢時代には中国本土から離れた楽浪郡でも発掘されているが、特に盛んになったのは唐の時代になってからで、貴族が自己の荘園内の河川や水路に碾磑を設置して専門の戸(磑戸)を設置して製粉業を行った。これは華北・中原においては粟の栽培を基本にしつつ水稲栽培も推進されていた均田制期の農業政策に対する阻害となることから、唐王朝は灌漑用水の妨害となる碾磑に対して厳しい態度で望んで度々碾磑設置の禁令や実際の撤去が行われていたが、気候的・地理的条件において不利を抱えていた華北における稲作政策が次第に放棄されて替わりに小麦栽培が奨励されるようになったことに加え、均田制の解体とそれに替わって華北・中原においては粟と小麦による2年3毛作を前提とした両税法への移行によって、碾磑規制の必要性が希薄となり、却って小麦の粉食に対応するために碾磑の設置に対する規制は有名無実化されていった。勿論、水稲栽培地域では依然として碾磑規制は必要性をもって行われていた。
中国歴代王朝政権にとって、こうした水碓・水碾・碾磑の利便性・財産的価値と一般住民の生活・農業用水の確保という相反する目的をいかに調和させるかが、洪水防止と並ぶ、治水政策の最大の課題となったのである。
なお、日本にも推古天皇18年(610年)に来日した曇徴によって碾磑が伝来され(『日本書紀』)、天平19年(747年)に法隆寺と大安寺が作成した資財帳にそれぞれ「碓屋」と記された家屋の所有が確認でき、これが碾磑施設と見られている。ただし、日本で粉食が行われるようになったのは後世のことであり、当時の日本では普及しなかったと考えられている。
石臼
関連項目
杵(きね)
カテゴリ: 書きかけの節のある項目 | 道具 | 民具
更新日時:2008年9月13日(土)02:25
取得日時:2008/10/09 06:55