自己言及のパラドックス
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自己言及のパラドックス(じこげんきゅうのパラドックス)とは、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。
目次

1 例

1.1 嘘つきのパラドックス

1.1.1 出典

1.1.2 解釈


1.2 この文は間違っている


2 集合論におけるパラドックス

3 自己言及とパラドックスの関係

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

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嘘つきのパラドックス

自己言及のパラドックスの古典として知られるのが、次の嘘つきのパラドックスである。

「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った。

なお、この発言をしたクレタ人はエピメニデスであるとされる。

ここでクレタ人(エピメニデス)自身が「クレタ人は嘘つき」と言及しているため、パラドックスが発生してしまう。すなわち、

「クレタ人は嘘つきである」が本当なら、クレタ人であるエピメニデスも嘘つきであるはずで、従って「クレタ人は嘘つきである」という発言も嘘でなければならない。

しかし「クレタ人は嘘つきである」が嘘なら、クレタ人であるエピメニデスも正直者である事になる。従って彼の「クレタ人は嘘つきである」という発言も本当でなければならない。


出典

このパラドックスの出典は、新約聖書中の「テトスへの手紙」(1章12-15節)である[1]

彼ら(=クレタ人)のうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ」

この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。


解釈

このパラドックスの解釈は色々存在するが、簡単にパラドックスを回避する方法として、前述の文章に「全ての」、「多くの」といった量化子を導入して解釈しなおす、というものがある。実際、クレタ人は正直者ばかりでもなければ嘘つきばかりでもないのかもしれないし、現実のように多くの場合は本当のことを言うが、時々間違えたり時々嘘をついたりする人々かもしれない。前述の文章を、例えば

「多くのクレタ人は多くの場合嘘をつく」と数少ない正直者のクレタ人であるエピメニデスが言った

実は「クレタ人の中にはたまには本当の事をいう人がいる」のに、エピメニデスは嘘をついて「全てのクレタ人は常に嘘をつく」と発言した

のように解釈すると、矛盾は生じない。

しかし、これらの解釈は、「この文は間違っている」という同種のパラドックスに対しては何の答えも出していない。


この文は間違っている

嘘つきのパラドックスと同様の理由により、

この文は間違っている。

という文章もパラドックスを含んでしまう。しかもこのパラドックスは、クレタ人のパラドックスと違って「全ての」、「多くの」といった言葉を挟んでパラドックスを解消するのはできそうにない。

よって「文章に言及する文章」を矛盾無く取り扱うには「この文は間違っている」という文章をうまく排除する必要がある。「この文は間違っている」という文章を回避する方法として、言語に階層をいれる、というものがある。すなわち、言語に「レベル0の文章」、「レベル1の文章」…を以下のように作る。

レベル0の文章:(自己言及や他己言及を含まない)「普通の」文章。

レベル1の文章:レベル0の文章について言及している文章。

レベル2の文章:レベル1の文章について言及している文章。


そしてこのようにレベルづけできる文章だけを(矛盾が生じる危険がないので)取り扱う事にし、その他の文章を扱うのを諦める。 したがって、

レベル0の文章の中には偽のものがある。

レベル0の文章に言及している文書はレベル1である。

レベル0の文章は、全て10文字以下である。

のようなものは扱う事ができる(ただし、扱う事ができるからといって、真であるとは限らない。実際 3 番目の例は扱う事ができるが偽である)。

一方「この文は間違っている」は排除される。実際、「この文は間違っている」という文章にはレベルづけできない。A = 「この文は間違っている」 として、仮に A のレベルが i であるとすると、 A は「この文(←レベル i )は間違っている」とレベル i の文章に言及した文章でもあるので、 A のレベルは i+1 であることになり、矛盾する。


集合論におけるパラドックス

集合論における典型的なパラドックスは次のようなものである。これは特に、バートランド・ラッセルが議論の対象としたことで知られる(ラッセルは述語論理における同様のパラドックスについても議論している)。

まず、様々な集合を2種類に分類する。ひとつは、自分自身を要素として含むような集合で、もうひとつは、自分自身を要素として含まないような集合である。

次に、その分類で、後者に分類されるもの全てからなるような集合を想定する。つまり、この集合は、「自分自身を要素として含まないような集合の集合」ということになる。(便宜上この集合を A とする。)

このような集合 A は、果たして「自分自身を要素として含まないような集合」のひとつであるかを考えてみると、もしも自分自身を要素として含まないのであれば、 A には A が含まれないということを意味する。ところが、 A は定義により、自分自身を要素として含まない集合全てを含むはずなので、 A には A 自身が含まれていなければならないはずである。ところが、もしも A に A 自身が含まれているとすると、それは A が自分自身を含む集合の一種であるから、 A の一要素として含まれていてはいけないことになる。

以上のように、この集合は自己言及のパラドックスを引き起こすことになる。


自己言及とパラドックスの関係

ところで自己言及によって必ずパラドックスが起きるというわけではない。 例えば、


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki