羽生善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。現在、4冠(名人、棋聖、王座、王将)。通算タイトル獲得数は歴代2位で、6つの永世称号(永世名人(十九世名人有資格者)・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を保持している。二上達也九段門下であり、棋士番号175である。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。羽生と同世代の棋士には強豪が多く、「羽生世代」と称されている。埼玉県所沢市生まれ、東京都八王子市育ち。
目次
1 プロデビューまでの来歴
2 戦績
2.1 デビュー、そしてスターダムへ
2.2 七冠独占への道
2.3 七冠以後
3 棋風
4 エピソード・人物
4.1 対局に関するエピソード
4.2 その他
5 昇段履歴
6 主な成績
6.1 在籍クラス
6.2 獲得タイトル
6.3 一般棋戦の優勝歴
6.4 将棋大賞
6.5 記録(歴代1位のもの)
7 その他表彰
8 著書
9 関連書
10 出演
10.1 テレビ番組
10.2 CM
11 関連項目
12 外部リンク
13 脚注
//
小学校1年生で将棋を覚え、2年生の頃から八王子の将棋道場(八王子将棋クラブ)に通うようになる(親が買い物をするとき、託児所的に将棋道場を利用したということもある)。通い始めた当初、通常は8級からスタートするところを、その実力から道場の席主から与えられた段級は15級であった。これは昇級の楽しみを与えるためであった[1]。しかしその後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年のときに初段、さらに、4年のときに四段、5年で五段となり、アマ強豪のレベルとなる。
子供の頃から将棋が家族内であまりにも強すぎたために、家族が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して、それまで家族が指していた劣勢な側を善治が、それまで善治が指していた優勢な側を家族が指し継ぐという家族内ルールが存在したという[2]。
5年生の頃から、関東各地の子供将棋大会を総なめにする。母親が我が子を見つけ易くするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽を被らされていて、周囲からは「恐怖の赤ヘル」と恐れられていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[3]。
関東各地の子供将棋大会で森内俊之と知り合い、この頃からライバル関係となる。将棋大会で、先手・森内の初手▲5八飛に対して後手の羽生が▽5二飛、という珍しい出だしの将棋があった[4]。
1982年の小学生名人戦で優勝。このとき森内が3位、NHKテレビ解説者は当時19歳の谷川浩司だった。
小学生名人戦で優勝後、奨励会入り。1年余で6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段を重ね、1985年12月18日に三段において13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[5]により四段に昇段し、加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。
「中学生棋士」としてデビューしたのは1985年12月であったが、実質の初年度である1986年度に、全棋士中で1位となる勝率(0.741)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。翌1987年度は、勝率1位(0.820)に加えて最多勝(50勝)も記録。
羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」[6]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。特に、先手番での勝率が9割という時期があった[7]。
羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴、加藤一二三、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下して優勝。