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織田 作之助(おだ さくのすけ、1913年10月26日 - 1947年1月10日)は、日本の小説家。通称「織田作(おださく)」。
目次
1 生い立ち・学歴
2 人物
2.1 エピソード
3 作風
4 作品
4.1 小説
4.2 評論
4.3 戯曲
5 関連書籍
6 関連項目
7 外部リンク
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1913年、大阪市南区生玉前町(現天王寺区上汐町4丁目27)にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる(但し、当時両親は母方から結婚反対に遭っていた為に婚姻届を提出できておらず、戸籍上は母の兄・鈴木安太郎の甥「鈴木作之助」という形をとった。作之助が「織田作之助」となるのは、1926年に両親が正式に入籍を果たしてからである)。
1920年 大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現・大阪市立生魂小学校)に入学。
1931年 旧制大阪府立高津中学校(現・大阪府立高津高等学校)を卒業し、第三高等学校(新制京都大学教養部の前身)文科甲類に合格を果たす。
1934年 卒業試験中に喀血し、白浜温泉への転地療養を余儀なくされる。その後復学はするものの、勉学に対する意欲を失い、町歩きに明け暮れるようになり、結局1936年に出席不足で退学した。
1935年頃の学生時代に後の妻となる宮田一枝と出会い同棲生活を始める。同時期、作家活動を開始。当初は劇作家志望で『嶽水会雑誌』に戯曲「饒舌」を発表したりしたが、スタンダールに影響を受けて小説家へ志向を転換。青山光二らと共に同人誌『海風』を創刊、1938年には処女作「雨」を発表して武田麟太郎の注目を受ける。
1939年3月に帰阪。長姉・タツの嫁ぎ先である竹中国治郎のもとへ寄寓する(ちなみにこの夫婦は、三高時代の学費を全額負担するなど、学生時代の作之助に対し惜しみない援助を行っていた)。7月15日、阿倍野の料亭「ちとせ」で宮田一枝と挙式し、南河内郡野田村(現・堺市)へ移る。尚、この時期、作之助は日本織物新聞社や日本工業新聞社への勤務を経験している。
一方で作家活動も続け、1939年9月には『海風』6号に「俗臭」を発表。この作品は、義兄竹中国治郎の長兄・吉川重太郎の生涯に題を得たものだが、これが翌年、室生犀星の推薦で芥川龍之介賞候補作となって注目を集める。更に7月に発表した「夫婦善哉」(小説)が改造社の第一回文芸推薦作品となり、これを機に本格的な作家生活に入る。 尚、俗臭冒頭に登場する児子勘吉は義兄竹中国治郎、吉川重太郎の父、湯浅の網元、吉川房六と言われている
戦時中には長編小説「青春の逆説」が発禁処分を受けたりしたが、当時の世俗を活写した短編「世相」を発表するなど、新戯作派(無頼派)の一人として活躍し、「オダサク」の愛称で親しまれた。
1944年に妻・一枝を癌で亡くし、2年後に笹田和子と再婚した。
1947年12月、結核による大量の喀血を起こし、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院する。一進一退しつつも病状は徐々に悪化し、翌年の1月10日に死去。天徳寺で通夜が執り行われ、13日には桐ヶ谷斎場で荼毘に付される。
その後、大阪にて再び通夜が行われ、1月23日には楞厳寺(大阪市天王寺区)で葬儀が営まれた。葬儀委員長は作家・藤沢桓夫、喪主は義兄・竹中国治郎が務めた。墓所は楞厳寺の境内にあり、墓碑の背面には藤沢と吉村正一郎の手で、作之助の生涯が記されている。
2008年1月に「六白金星」と同じ題の未発表原稿が36枚発見された。原稿は戦中の1940年(昭和15年)の「文芸」9月号に掲載される予定だったもので1946年に発表された「六白金星」のあとがきに「同じやうな材料を、私は昭和15年に書いたが、当時発表を許されなかった」と記されていたことから、これがその『同じやうな材料』にあたるものではないかと考えられ検閲により発表できなかったのではと考えられている。未掲載原稿は400字詰め原稿用紙で書かれており未完。ストーリーはほぼ同じだが、細部の文章が大きく異なる。
エピソード
作之助は前述の通り仕出屋の出身だが、当時、仕出屋の息子が三高に入学を果たすということは極めて稀な話だった。母校・東平野第一小学校から「(三高の)入学式の日に児童総出で見送る」という申し出があったという逸話もある(作之助は同小学校の卒業生では初めての三高生に当たる)。
映画監督・川島雄三とは生前親交があり、川島と共に日本軽佻派を結成したこともある。後に川島は、作之助の作品を数本映画化している。