統帥権(とうすいけん)とは、軍隊における最高指揮権をいう。
目次
1 近代日本における統帥権
2 統帥権干犯問題
2.1 遠因
2.2 表面化
2.3 結果
3 その他の統帥権を巡る事例
3.1 日露戦争
3.2 ワシントン会議における海軍大臣の職務代理
3.3 「東條幕府」
4 自衛隊の最高指揮監督権
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
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近代日本では大日本帝国憲法第11条が定めていた天皇大権のひとつである陸軍や海軍への統帥の権能を指す。その内容は陸海軍の組織と編制などの制度、および勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令、などの権である。これらは、陸軍では陸軍大臣と参謀総長に、海軍では海軍大臣と軍令部総長に委託され、大臣は軍政権を、参謀総長・軍令部総長は軍令権をになった。
狭い意味では、天皇が、軍事の専門家である参謀総長・軍令部総長に委託した、戦略の決定や、軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権のことをさして統帥権ともいう。明治憲法下で天皇の権能は、特に規定がなければ国務大臣が補弼することとなっていたが、それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については、国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた[1][2]。
この軍令と国務大臣が補弼するところの軍政(軍に関する行政事務)の範囲についての争い[3]が原因で統帥権干犯問題が発生する。この明治憲法が抱えていた缺陥が、1940年(昭和15年)より終戦に至るまでの日本の国家社会主義化を助長した点は否めない。
なお、統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者が政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性をおそれたこと、それといささか矛盾するが元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握していたことから後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、南北朝時代に楠木正成が軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川で戦死し南朝の衰退につながった逸話が広く知られていたこと、などがあげられる。
注:明治憲法の条文が記載されています。原文はカタカナ表記ですが、読みやすさを考慮してひらがな表記にします。
なお、軍人の暴走例としてよく取り上げられる問題ではあるが、そもそも国会議員が政治抗争の手段として、軍内部の争いに油を注ぐ形で持ち出した問題であることには注意するべきである。
明治憲法下では軍の統帥権が天皇にあったが、編成権(部隊編成、予算編成など)に関しては、国務大臣が補弼するのか。それとも、憲法に明記されていなかったが、慣習的に軍令については、国務大臣が輔弼せず統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていたことにより、その大権に含まれるのかどうかが大きな論点となっていた。
第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
から編成権も統帥権に含まれるとする意見と、
第55条 第1項 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
から、軍の編成権は内閣が持つとする意見がある。
第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
第64条 第1項 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし
により、軍の編成・維持のための予算は議会が決定する物であるが、統帥部は、軍事に関する情報を内閣に通さず天皇に報告(上奏)できたため、国務大臣(内閣)が関わる必要がないと言う考えが大勢を占めた。
1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会においてロンドン海軍軍縮条約締結に対し、軍令部が要求していた、補助艦の対米比7割に満たないとして条約締結拒否を言ったにもかかわらず、この条約を結んだことを理由に(ただし条約での補助艦全体の対米比は6.975であり、0.025少ないだけである。トン数にすると6000トン程度)、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎が衆議院で、「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃、続いて枢密院議長倉富勇三郎もこれに同調する動きを見せた。やがてこうした反対論は同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになる。それでも政府は世論の支持と元老・内大臣の了承を背景に帝国議会・枢密院を押し切って同年10月2日に批准を完了させる。当時の軍令部総長加藤寛治は、統帥権干犯を批判し天皇に辞表を提出した。同年11月14日、濱口雄幸総理は右翼団体員に東京駅で狙撃されて重傷(翌年8月26日死亡)。濱口内閣も1931年(昭和6年)4月13日総辞職する。