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皇位簒奪(こういさんだつ)とは、直接血縁にない者、あるいは血縁がより遠い者が天皇の地位(皇位)を奪取すること、ないしそれを批判的に表現した語。本来皇位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる。皇位簒奪と言う言葉は、「皇位は不朽の万世一系によるもの」という思想から出る言葉である。従って、皇統内で武力や政治的圧力により皇位の移動があっても簒奪とは一般的には言わない。また皇位は基本的に万世一系であるとされており、皇位簒奪の具体例として挙げられているものは、未遂、あるいは本当に皇位簒奪かどうかは学者の間でも議論が分かれているものとなる。
簒奪とは君主の地位を奪取する事である。皇位の場合とは異なり、諸外国の君主の場合は、確実に簒奪とされている例も多い、しかし実質的な内容が簒奪であっても表向きは「自主的に血縁関係が無い有徳の人物に君主の地位を譲る」禅譲と称されることがあり、これは前王朝から王位・帝位を獲得した方法について、肯定的ないし賞賛する立場からの表現であり、批判的な立場からは「簒奪」とされる。歴史上で企図した人物を確認出来るとされるが、それらにその意図があったかは不明な部分が多い。
今谷明は著書『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』(中央公論社)で足利義満の皇位簒奪説を説いた。しかし、中央公論社は嶋中事件の後遺症で「皇位簒奪」の用語を用いることを恐れ、今谷の反対を押し切って、「王権簒奪」という不正確な表題にしてしまったという。
目次
1 歴史上の皇位簒奪の事例
1.1 古代の天皇
1.2 蘇我氏
1.3 天武天皇
1.4 道鏡
1.5 平将門
1.6 足利義満
1.7 下間頼康
1.8 織田信長
1.9 麻原彰晃
2 神道研究
3 参考文献
4 関連項目
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上記の通り、皇位簒奪を行ったのか、あるいは皇位簒奪を目指していたかどうかについては議論が分かれている。
崇神天皇・応神天皇・継体天皇など、古代の天皇の何人かは、前代の天皇とは血縁は無く皇位簒奪を行ったのではないかという説[要出典]が存在する(王朝交替説)。ただし古代の天皇については、そもそも血縁による皇位継承を行っていたかどうか疑問を呈する意見[要出典]もある。
蘇我氏は大王家(後の天皇家)を凌ぐ権勢を誇り、遂には自身が大王になろうとしたが、乙巳の変で当主蘇我入鹿他が暗殺された。
大友皇子(弘文天皇)は正式に即位しており、従って壬申の乱は天武天皇による皇位簒奪であったという説がある。さらに進めて、天武天皇が天智天皇の弟だったという通説に疑問を呈し、兄弟ではなかったのではないかという異説[要出典]も存在する。ちなみに、仮にこれが皇位簒奪であったとしても、天武天皇の血統は称徳天皇を以て絶えており、その後の天皇家は天智系に復している。
聖武天皇の出家(神⇒仏)、孝謙太上天皇の再即位(仏⇒神)など神仏混交が進み天皇の地位が変質するなか、孝謙天皇(称徳天皇)の看病禅師として宮中に入り、寵愛されるようになっていた道鏡は、天皇に準ずる法王に即位し、家政機関も設置されるなど事実上の女帝との共同統治者となり仏教事業や神祇を司った。更に二人の二頭体制によって皇太子を経ず形式的に天皇に即位すべく準備が行われた。間もなく女帝が死去した為実現しなかったとされる(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は神託を否定するが、下野の薬師寺造寺別当として左遷された。
もっとも、この事件を記した『続日本紀』が、女帝の死によって皇位継承権を得た光仁・桓武両天皇時代の著作で、その正当性の誇示を目的に執筆されたとも言われているため、留意する必要がある。
詳細は承平天慶の乱を参照
平将門は、一族の内部抗争を勝抜き坂東(関東一円)を制圧すると、天慶2年(939年)、上野国庁で即位の儀礼を行った。八幡大菩薩の使いを称する巫女が宣託を告げ、興世王から「新皇」の号を進呈されたという。新皇位への即位は京都朝廷へ奏上を行っており、相対する新たなる天皇という意味で新皇を名乗った。しかし将門は、敵対勢力への対応に忙殺されて翌年には討たれているためその政治目的は不明瞭であるが、独自に諸国受領などの文武百官を任命するなど支配機構の確立も行っている。新皇即位など一連の行動を証拠として、「坂東独立王国」を築こうとしていたとする説[要出典]が主張されている。