筑波研究学園都市(つくばけんきゅうがくえんとし Tsukuba Science City)は、約300に及ぶ研究機関・企業と約1万3千人の研究者(博士号取得者は約5千600人)を擁する世界有数の学術・研究都市であり、田園都市である。1960年代以降に開発された。地理的な範囲は行政的に茨城県つくば市と同じと定義され、「研究学園地区(約2,700ha)」と「周辺開発地区」で構成される。
目次
1 沿革
2 地区
2.1 研究学園地区
2.2 周辺開発地区
2.3 都市ゲート
2.4 学園
3 暮らし
3.1 旧住民と新住民
3.2 外国人研究者
3.3 田園都市
4 科学技術関係機関
4.1 大学など
4.2 国など
4.3 公益法人
4.4 民間
5 過去に立地していた研究機関
6 架空の研究機関
7 つくばWAN
8 今後の発展
9 関連項目
10 外部リンク
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1950年代、東京は急激な人口増加によって過密状態となっていた。このため政府は、1956年に首都圏整備委員会(以下、委員会)を設置し首都機能の一部を移転することに関する検討を始めた。委員会は、都内のすべての大学を移転し70万人都市を建設する試案や、都内のすべての官庁を移転し18万人都市を建設する試案などを立案していった。
1961年9月、「都内の市街地になくても、機能上さしつかえない官庁(付属機関や国立学校を含む)の集団移転について、すみやかに検討する」とした閣議決定がなされ具体的な検討が始まった。委員会は、1963年に移転の候補地として富士山麓、赤城山麓、那須高原、筑波山麓の実地調査をし、同年9月に筑波山麓(注:現在のつくば市と牛久市)に4,000haの研究学園都市を建設することが閣議了解された。筑波山麓の利点として、東京から距離が離れすぎていないこと、霞ヶ浦から十分な水が採取できること(水質汚濁は1960年代以降)、地盤が安定した平坦地であることなどが挙げられる。翌月、委員会は基本計画としてNVT(Nouvelle Ville de Tsukuba:筑波ニュータウン)案を提案するが、激しい地元住民の反対にあった。その後計画面積を2,700haに縮小し、南北に細長くした案を提案、試行錯誤しながら建設の計画を進めた。
一方、1967年9月、6省庁36機関(その後43機関に増加)を移転することを閣議了解、1968年10月に旧科学技術庁防災科学技術センターが着工した。しかし多くの機関が工事に着工しなかったため、1970年5月に筑波研究学園都市建設法が施行され、その後着実に都市建設と機関の移転が進み1980年に機関の移転が終了した。
その後も都市機能などの整備が行われ、1985年には筑波の国内外における知名度の向上と民間企業の誘致のために国際科学技術博覧会を開催した。現在、約300に及ぶ研究機関・企業と約1万3千人の研究者を擁するに至る。
なお、計画面積の縮小に伴い最も影響を受けたことの一つが、共同利用施設の計画縮小である。そのため、省庁の枠を超えた研究機関同士の交流や、産官学の連携は不十分なものになったが、近年連携の強化が模索されている。
研究教育施設地区、住宅地区(主に新住民用)、都心地区の合わせて約2,700haからなる。田畑・人家をできるだけ避け赤松林などを造成して建設したため南北に細長くなっている。主幹線道路である東大通り(荒川沖駅付近から筑波山の方角に南北に伸びる道路)や、それと並行する西大通り、牛久学園線があり、それらを東西につなぐ平塚線、北大通り、中央通り、土浦学園線、南大通り、土浦野田線と呼ばれる幹線道路がある。