第四次対仏大同盟(だいよんじたいふつだいどうめい, Fourth Coalition, 1806年10月6日 - 1807年7月7日)は、ナポレオン1世のフランス帝国による覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟である。
目次
1 同盟
2 ドイツ・ポーランド戦役(1806-1807年)
2.1 イエナ・アウエルシュタットの戦い
2.2 アイラウの戦い
2.3 フリートラントの戦い
3 戦後処理
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1805年12月2日、アウステルリッツの戦いに勝利したナポレオンは、オーストリアを第三次対仏大同盟から脱落させた。しかし、イギリス、ロシア、スウェーデンは依然として同盟を維持していた。1806年7月、ナポレオンはライン同盟を結成、これによってフランスの覇権は中部ドイツまで及ぶこととなった。領域を接するプロイセンは危機感を抱き、7月にロシアと同盟を結んだ。イギリスなども含む第四次対仏大同盟は10月6日に成立した。
第四次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。
プロイセン王国
ロシア帝国
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)
ザクセン王国
スウェーデン王国
ドイツ・ポーランド戦役(1806-1807年)ナポレオンのベルリンへの入城
プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、国力の差もあり、フランスとの開戦に必ずしも賛成ではなかったが、王妃ルイーゼ、プロイセン王子ルイ・フェルディナントといった反ナポレオンの急先鋒はさかんに王を焚き付け、ついに開戦の決意を固めさせる。
プロイセンは軍の動員を開始したものの、作戦計画や指揮権の所在が明確でなかったため、動員は遅々として進まなかった。1806年9月26日、プロイセンはフランス軍のドイツからの撤退を要求する最後通牒を突きつけたが、これは前日の9月25日にナポレオンがパリを発した後だった。こうしたプロイセン軍の初動の遅れは、フランス軍に態勢を整える時間を与えてしまう。
10月9日、プロイセン軍はフランスへ宣戦布告し、15万の兵力をもってテューリンゲンへ侵攻した。ナポレオンは直ちに20万の兵力をもってバイエルンからザクセン方面へ向けて進撃。10月10日、ザールフェルトの戦いでランヌ軍団がプロイセン軍先鋒のルイ・フェルディナント親王を戦死させた。
プロイセン軍本体も、10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的打撃を受けた。イエナ方面ではナポレオン率いるフランス軍主力がプロイセン軍の後衛部隊を撃破。アウエルシュタット方面ではフリードリヒ・ヴィルヘルム3世とブラウンシュヴァイク公に率いられたプロイセン軍主力が、2倍の兵力をもってダヴー軍団に攻撃をかけるが撃退された。
フランス軍は敗走するプロイセン軍を追撃し、10月25日、プロイセンの首都ベルリンを制圧。10月27日にナポレオンもベルリンへ入城した。開戦からわずか19日後の出来事であった。フリードリヒ大王の墓所を訪れたナポレオンは、「彼が生きていれば我々は今日ここにいなかっただろう」と語ったという。11月6日、マクデブルクの守備隊が降伏し、事実上、国内のプロイセン軍は消滅した。
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへ逃れ、ケーニヒスベルクを臨時首都とした。ロシアは10万の援軍を東プロイセンへ集結させた。ナポレオンはポーランドに進軍。ポーランド人はナポレオンを祖国の解放者として熱狂的に迎え入れた。
1807年1月末、厳寒の中をフランス軍はケーニヒスベルクへ向けて侵攻。2月7日-8日、ロシア・プロイセン連合軍とアイラウの戦いで衝突した。吹雪の中の戦いは苦戦となり、フランス軍はロシア軍の撤退によって辛勝を得るが、両軍共におびただしい死傷者を出し決着はつかなかった。フランス軍は一旦後退し、ルフェーブルを指揮官として3月18日からダンツィヒの攻囲戦を開始し、5月27日にプロイセン軍守備隊が降伏した。