第二次エチオピア戦争は、1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国とエチオピア帝国の戦争。第一次エチオピア戦争で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図した。また国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。
目次
1 背景
2 ワルワル事件
3 両軍の装備
3.1 エチオピア
3.2 イタリア
4 戦争の経過
4.1 イタリアの進撃と経済制裁
4.2 司令官の交代
4.3 戦後処理
5 関連項目
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世界恐慌後のイタリアの状況、人口の増加に比して経済の著しい低迷、高い失業率を背景として、ベニート・ムッソリーニ政権は、「古代ローマ帝国の再興」、「地中海を再び我らが海に」という民族主義的なスローガンを掲げつつ、余剰人口や資源の為の植民地の獲得と国威発揚を目的とした膨張政策を進めた。
植民地として第一候補に挙げられたのがエチオピアである。アフリカ分割によりアフリカのほとんどはイギリスやフランスなどの植民地と化していたが、その中でエチオピアは独立を維持していた国の一つであった。また他の理由として、地理的にはエチオピアはイタリア領のエリトリアとソマリランドに隣接しており攻撃しやすかったこと、エチオピアが軍事的に弱体であったこと、天然資源が豊富であったこと、第一次エチオピア戦争という過去を口実にできたことがある。
イタリアはイギリスとフランスの干渉を排除するため、1935年1月7日フランスとの間に、アフリカ大陸におけるイタリアの自由行動を認める協定を結び、同年4月ドイツの拡張に対抗するためイギリス・フランスとともにストレーザ戦線を結成した。
6月に英独海軍協定が締結されると、エチオピア侵略のための外交面における障害はほぼ無くなった。
イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境を策定した条約では、ベナディール海岸から21リーグ内陸を平行した線とされていた。イタリア側は、より大きくエチオピア領を侵食しようという意図から、標準的なリーグではなく、海事におけるリーグと解釈した。1930年にはエチオピアのオガデン地方のオアシスであったワルワルにイタリア軍が要塞を築き、1932年にかけてイタリア領ソマリランドからの進出はますます顕著になり、明らかにエチオピア領内である場所に道路までも建設され始めた。
1934年11月、エチオピアの地方守備隊を伴ったイギリス領ソマリランドとエチオピアの国境策定委員会は、このイタリアの侵略に抗議したが、委員会のイギリス代表は、国際紛争化を避けるためにすぐに現地を退去した。12月5日、ワルワルの地で両軍が衝突し、エチオピア軍に150人、イタリア人に50人の死者が出て、緊張状態は最高度に達した。
1935年1月3日、エチオピアはイタリアの侵略を国際連盟に提訴した。この問題を巡って国際連盟は「アビシニア危機」と呼ばれる政治危機に揺れるが、国際連盟の中心的存在であった英仏の宥和政策に引きずられて、1935年9月、国際連盟の仲裁委員会は紛争当事者双方に責任なしという裁定を下し、事実上事態の推移を傍観するだけであった。
この間、イタリアはエリトリアとソマリランドの軍をエチオピア国境に集結させ始めた。攻撃がもはや避けられないものとなるや、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、国家総動員を命令し、50万人の新兵を集めたが、彼らの多くは、槍や弓矢といった原始的な武器しか持っていなかった。
開戦時エチオピア軍は35万人の兵力を集めたが、訓練を受けていたのはその4分の一で、装備していたライフルは18世紀のものだった。
エチオピア軍は旧式の火砲200門を保有し、馬車によって運搬された。また、エリコン20mm機関砲やヴィッカース重機関銃など対空砲50門、第一次世界大戦で使用されたルノー FT-17 軽戦車の改良型であるFIAT3000軽戦車をごく少数、保有していた。
空軍は貧弱で、使用できる兵器は小型の複葉機3機であった。
1935年4月イタリアは東アフリカの植民地において兵力の強化を開始し、エリトリアに正規軍5個師団と黒シャツ隊5個師団が、イタリア領ソマリランドに正規軍1個師団と黒シャツ隊数個大隊がそれぞれ到着した。
元駐留軍や現地人兵士を除き、これらの部隊は士官7千人と兵士20万人[要出典]によって構成され、マシンガン6千丁、火砲700門、豆戦車150両、航空機150機を装備していた。