第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん 1096年-1099年)は1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。
十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そこで、エルサレム王国など「十字軍国家」とよばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国がはじめて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における一大ターニングポイントとなった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。
目次
1 歴史的背景
2 11世紀後半の中近東情勢
3 十字軍運動への歴史的経緯
3.1 クレルモン教会会議
3.2 民衆十字軍
3.3 反ユダヤ主義との結びつき
3.4 諸侯による十字軍活動
3.5 東方への進軍
3.6 アンティオキア包囲
3.7 エルサレム包囲
3.8 1101年の十字軍と十字軍国家の樹立
4 分析
4.1 第1回十字軍の成功後
4.2 十字軍としての意識
4.3 十字軍運動の魅力の秘密
4.4 霊性と世俗の間
5 関連項目
6 参考文献
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十字軍運動を理解するためには、まず中世初期の西欧の状況を理解する必要がある。カロリング朝の分裂後、ヴァイキングとマジャル人がキリスト教化されたことで西ヨーロッパのローマ・カトリック教圏はようやくの安定をみた。ところが争いがなくなると今度は戦闘によって生計を立てていた人々が手持ち無沙汰になり、お互いに私闘を繰り返したり、農民の生活を脅かすようになった。
やがてこのエネルギーが非キリスト教徒に向けられることになる。スペインで行われていたレコンキスタはその代表的な動きである。手持ち無沙汰だった騎士や傭兵たちはイスラム教徒との戦闘という共通の目的を見出した。ノルマン人とイスラム教徒がシチリア島の支配をめぐって争い、ピサ、ジェノヴァ、アラゴンといった国々はマジョルカ島やサルディニア島でイスラム教徒と争い、イタリアやスペインの沿岸地域からイスラム教徒を駆逐した。
このように十字軍運動が始まるはるか前から、西欧諸国とイスラム教徒の戦いはすでに始まっていたのである。地中海におけるイスラム教徒との争いの中で、キリスト教カトリック信徒の中に、キリスト自身が歩いた聖地エルサレムの奪回という新たな目標が芽生え始めていた。1074年、教皇グレゴリウス7世は「キリストの騎士たち」に向かい、イスラム教徒の猛威に脅かされていたビザンティン帝国(東ローマ帝国)への支援を訴えた。ビザンティン帝国救援という呼びかけ自体は西欧の人々を動かすことはなかったが、11世紀に入ってキリスト教徒の間でエルサレムへの巡礼が流行していたこともあいまって、西欧の人々ははるか東方へ目を向けるようになった。
このような流れの中で、教皇ウルバヌス2世が訴えたエルサレム奪回という目標は、軍人に限らず西欧諸国の広汎な人々の熱狂を呼び起こすこととなった。それは数百年来、鬱屈していた軍事的エネルギーが宗教的情熱と結びついて燃え上がった瞬間であった。
西欧諸国とイスラム諸国の間にはビザンティン帝国が存在していた。ビザンティン帝国はキリスト教国ではあったが、正教会という別の宗派に属し、カトリック教会と北地中海沿岸の旧ローマ帝国支配域を大きく二分していた。皇帝アレクシオス1世コムネノスのもとで帝国は西にヨーロッパと隣接し、東にイスラム教国家と接していた。さらに北からはノルマン人の圧迫も受けていた。アレクシオス1世はイスラム教徒に奪われた古来からの領土小アジア(アナトリア半島)の奪還を悲願としていた。