稲毛 重成(いなげ しげなり、生年不詳 - 元久2年6月23日(1205年7月11日)は鎌倉時代初期の武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で鎌倉幕府の御家人。源頼朝の側近。通称は三郎。父は小山田有重(畠山重能の弟)。妻は北条時政の娘。子に小沢城主・小沢小太郎重政、宇都宮頼綱室
武蔵橘樹郡十六郷を領す有力御家人である。初め小山田重成を名乗り、枡形山に稲毛館を構える。のち名を稲毛重成に改める。詰めの城として、枡形城(現生田緑地)を築城した。
源頼朝の死因を作ったとされる。源頼朝は稲毛重成が造った橋の橋供養に訪れ落馬した。なお、この橋の遺構が関東大震災の際に旧相模川橋脚として発見された。
従兄弟の畠山重忠を讒訴して、討伐命令のきっかけを作った。幕府に命じられ、1205年(元久2年)、重忠を討ち取る。その直後、重成も三浦義村に殺害された。
ちなみにスーパーマーケットチェーンいなげやの名前の由来は、いなげや創業主が稲城市出身で郷土の英雄の重成に憧れた為につけた屋号である。
稲毛氏名は各地に在籍しており、四国にも小家が在るが家紋・史実から見て明らかに他家。亜系か従者。
本家は稲毛氏名が千葉県・神奈川県・東京都多摩地区と関東近辺に多数在住しており、その内にあるかもしれないと思われるが後記のように滅亡とみるのが有力。
三郎の父の小山田有重は平家方に加わり元々稲毛姓ではなく、伯父の畠山重能氏も伴に平家方に加わり頼朝挙兵時には京都に出向いて平家に忠誠を誓っていた。その後父と伯父の兄弟二人は行方知れずとなっている。いずれにしろ稲毛姓ではない。
稲毛姓となった三郎が共に戦った従兄弟の畠山重忠は三郎と同様文字通り実父達に反旗を翻しており親子断絶状態であった。また、史実どおり子の小沢小太郎重政など主だった者は三浦義村らに誅殺され、主家は滅んでいると見るのが妥当である。
この一族は畠山・小山田・稲毛・小沢とわずか3世代で頻繁に改姓しており、直系なら間違いなく子供の名乗った小沢姓となる。
また、?谷四郎・森五郎と共に「稲毛3兄弟」と言われ、宇治川「瀬田」の戦いで功績を挙げた時でも兄弟同士で異なった姓を名乗っている。源氏につき、父に対する叛旗をあげた為に、平家に父と伯父が罰せられない為の心遣いと思われる。
史実に忠実ならば稲毛姓の直系とは考えられない。亜系か江戸時代に流行った家系売買・家系策定の流れで誤った知識で作った名前と思われる。
このように稲毛義典氏が受勲したとの事と稲毛姓の本家との関連性は全くない。
『史実・明白な証拠なくしての田舎の有力者の個人的自慢・自己満足の記入は慎みましょう。』
年表
1180年(治承4年)8月- 源頼朝が挙兵した石橋山の戦いでは、平家方として参陣。
1180年(治承4年)10月- 隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠らとともに源頼朝の軍に加わる。
1184年(寿永3年)- 一ノ谷の戦いでは大手軍の大将源範頼の軍に加わる。
1181年(養和元年)- 治承4年に所領として加えられた多磨郡の土地が、本来は平太弘貞の所有である事が発覚し、頼朝の怒りを受ける。
1187年(文治3年)- 幕府主催の弓術の行事に参加し、源頼朝より弓三張が下賜される。神鳥前川神社を創立。
1189年(文治5年)- 源頼朝の奥州征討に随行。
1190年(建久元年)- 源頼朝の上洛に随行。
1195年(建久6年)6月- 源頼朝の再上洛に随行しその帰路美濃の国で妻危篤を知る。頼朝から駿馬が下賜され急ぎ本領へもどる。
1195年(建久6年)7月- 妻が亡くなった事を悲しみ稲毛重成出家。
1198年(建久9年)- 重成法師、亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋供養が行われる。橋供養に出席した源頼朝がその帰路落馬し、その時の怪我がもとで亡くなる。
1205年(元久2年)4月- 蟄居していた重成入道、鎌倉を訪れる。
1205年(元久2年)6月- 稲毛重成の招きで6月20日畠山重保が鎌倉へ到着。二日後、重保は謀反の疑いにより殺害。重保の父畠山重忠も鎌倉へ向かう途中の二俣川で謀反の疑いにより殺されるが、すぐに畠山の嫌疑は晴れる。6月23日、事件の鍵を握る稲毛重成、子の小沢重政も三浦義村によって殺される。遺領の小沢郷は、北条政子の計らいにより稲毛重成の孫娘綾小路師季室の女子に与えられた。
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関連項目
川崎歴史ガイド
旧相模川橋脚
稲毛氏
稲毛義典
カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | 小山田氏 | 鎌倉時代の武士 | 武蔵国の人物 | 神奈川県の歴史 | 1205年没
更新日時:2008年9月29日(月)03:41
取得日時:2008/10/04 22:20