科挙(かきょ、ピン音 k?j?、英Imperial examination)とは、中国で598年〜1905年、即ち隋から清の時代まで行われた官僚登用試験[1]である。
目次
1 概説
2 歴史
2.1 隋・唐
2.2 宋
2.3 元・明・清
2.4 太平天国
3 試験区分
3.1 童試
3.2 殿試
3.3 武科挙
4 その他中国の科挙
4.1 制科
5 外国への影響
5.1 ベトナム
5.2 朝鮮
5.3 日本
5.4 その他
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
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科挙という言葉は「(試験)科目による選挙」を表す。選挙とは郷挙里選や九品官人法などもそう呼ばれたように、伝統的に官僚選定のための手続きをそう呼んでいるものである。また「科目」とは現代の数学や国語といった「科目」を指すものではなく、後述する進士科や明経科などと呼ばれる受験に要する学識のコースのことである。北宋代にこれら科目は進士科一本に絞られたが、以後も科挙と呼ばれる。
隋の文帝により初めて導入されるが、隋および唐に於いては貴族として生まれた者たちが高い地位を独占しており、その効力は発揮できていなかった。これが北宋になると科挙によって登場した新官僚たちが形成した新しい支配者階層、士大夫を作り、政治・社会・文化の大きな変化をもたらし、科挙はその最も大きな要因とされる。これら士大夫たちは科挙通過によって官僚になることにより地位・名声・権力を得て、それを元にして大きな富を得ていた。
学識のみを基準とする科挙ではあるが、試験に合格するためには幼い頃より勉学にだけ励むことの出来る・つまり生業を営まなくても食べていけ、かつ勉学のために高名な学者への入門費用・当時はまだまだ高価であった書物の大量の購入費用など莫大な費用がかかった。そのため科挙合格者はほとんどが富裕層に限られ、支配者たる士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。ただし旧来の貴族が長い家では六朝時代を通じてといった長い期間存在していたのに比べ、士大夫は長い家でも四・五代と短く、科挙に合格できなければ昨日の権門も明日には没落するという状態になっていたことは特筆すべきである。
そのため試験の競争率は熾烈を極め、時代によって異なるが、約3000倍とも言われている。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、約36歳と言われている。合格者数に対して受験者数が増大し、カンニングをするために、全体にびっしりと詩文の書かれた下着など、科挙の過酷さを伝える逸話も多い。このような試験偏重主義による弊害もまた大きかった。「ただ読書のみが尊く、それ以外のことは全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という格言に象徴される風潮が20世紀初頭になっても残っており、君子たる官僚は詩作や作文など教養面に優れることを最大の条件とし、経済・工業技術・軍事など世俗的な実務面には無能であることをむしろ誇りとする始末であった。こういった風潮による政府の非能率化や無能さも列強の圧力が増加するに従い深刻な問題となってきた。また太学や書院などの学校制度の発達を阻碍した面を持っていることは否めない。これに対しては王安石などにより改革が試みられたこともあったが頓挫した。
時代と共にその傾向は進み、西洋列強の進出する中では科挙は時代遅れの存在となり、1905年に廃止された。
なお、科挙には武官を登用するものもあり、「武科挙」と呼ばれた。しかし伝統的に中国では軍人・兵士は下に見られた存在であり、一般に「科挙」というと、文官を登用するもののみを指す。
科挙は隋の文帝によって始まる。それまでの九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものと到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。隋より前の六朝時代には、世襲の貴族が、家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。隋代の科挙は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試・会試の二段階であった。
科挙はその後、唐にも受け継がれたが、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・会試の二段階であった。会試(貢挙)には、四科が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる科目である。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。
しかし、唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。