秋田ロケット実験場(あきたロケットじっけんじょう、Akita Rocket Range)は、秋田県由利郡岩城町(現由利本荘市)の道川海岸にあった、東京大学生産技術研究所のロケット発射実験施設である。
目次
1 ペンシルロケット打ち上げ
2 ベビーロケット打ち上げ
3 カッパロケット打ち上げ
4 新実験場建設へ
5 K-8-10爆発事故
6 現在の道川海岸
7 関連項目
8 外部リンク
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東大生研AVSA研究班の糸川英夫教授を中心として研究の始まった『ペンシルロケット』は、1955年4月12日、東京都国分寺の廃工場跡地で水平発射公開実験に成功。その後、千葉の生研実験場に場所を移して水平発射実験を継続した。
水平発射で経験を積んだ後、いよいよ上空へ向けての発射実験が行われることとなった。日本には外国のような広い砂漠がないため、飛翔実験を行うにしても海岸から打ち上げて海に落下させるほかないが、当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。船舶や航空機の航路を避け漁業への影響が少ない場所として、秋田県岩城町の勝手川河口南側の道川海岸が選定された。
上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。
1955年8月6日に行われた最初の発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗であった。急遽ロケットの固定方法を改良し、同日2回目の発射実験は成功した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒であった。
ペンシルの飛翔実験は1955年8月8日で終了し、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の『ベビーロケット』の発射実験を開始した。
標準型であるベビーS型は、ペンシル300と同様の発煙剤による光学追跡であったが、ベビーT型でテレメータを搭載し電磁気的な追跡が可能となった。またベビーR型では、パラシュートによる機器回収の実験を行った。
ベビーロケットは、1955年12月までに計36機が打ち上げられた。到達高度は6kmであった。
1957年から1958年にかけての国際地球観測年(IGY)に日本が参加を表明したことを受け、文部省(現文部科学省)は、大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川に打診、1956年1月、東大生研へ正式に協力要請が下された。ペンシルおよびベビーで経験を積んだAVSA研究班は、本格的な観測用ロケット『カッパ(K)ロケット』の開発に着手した。
ベビーよりも大型となるカッパを打ち上げるにあたって、発射場は勝手川河口北側へと移された。1956年9月24日、K-1型が初飛翔。到達高度は10kmであった。
カッパの開発は必ずしも順風満帆ではなかったが、1958年9月、K-6型が高度60kmに到達した。当初目標の高度100kmには及ばなかったものの、この観測データをもって日本はIGY参加の責務を果たした。
IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960年にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて海上に落下することがあっても問題であった。道川からの打ち上げは高度300〜350kmが限界とされた。
この頃には米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設が着工された(1963年12月9日開所)。
内之浦への新実験場の建設が決まった後も、東京から近く、梅雨の期間が短いために夏季の実験・観測に有利である秋田実験場は、高度300km未満の小型ロケットの飛翔実験に継続して使用する予定だった。しかし1962年5月24日夜、K-8型10号機が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった(固体推進剤内に生じていたクラックが原因とされている)。死傷者は出なかったものの、事故を機に地元の協力が得られなくなり、安全対策にかかる費用の問題もあり、道川での発射実験は中止に追い込まれた。以後の東大によるロケット飛翔実験は内之浦へ全面的に移行することとなる。1955年から1962年にかけて秋田ロケット実験場から打ち上げられたロケットは、延べ88機であった。
なお、東大の道川からの撤退に際し、秋田県は何らかの代替施設を県内に設けることを東大に要望、これを受けて1962年10月、能代市にロケットモーターの地上燃焼実験施設「能代ロケット実験場(現能代多目的実験場)」が開設された。
現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類は一切現存していない。岩城町が建立した「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、日本の宇宙開発最初期の舞台であった歴史を今に伝えている。
関連項目
宇宙科学研究所