清和政策研究会(せいわせいさくけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥。 略称は清和会(旧名でもある)。会長職は現在廃止されており、集団指導体制になっている。代表世話人は町村信孝・中川秀直・谷川秀善の3名。通称、町村派(福田派→安倍派→三塚派→森派→町村派)。
自民党内で1955年保守合同時の旧民主党(岸信介・鳩山一郎派)の流れを汲む大派閥。旧民主党の「反吉田」路線を起源に持つため、憲法改正、自主防衛など比較的タカ派色が強く、反共・親米的である他、そのような政策の反映として、冷戦期には親韓・親台の傾向が強かった。一貫して自民党の有力派閥だが、ポスト佐藤で福田赳夫が政権禅譲に失敗した上、総裁選で田中角栄に敗北して以来、激しい派閥抗争の中で、旧自由党系の平成研究会や宏池会などの諸派に比べると非主流派に甘んじることが多かった。
福田赳夫政権が終わって以降、同派が主流派として実質的に政権の中枢を担うようになるのは小泉政権発足以降である。
目次
1 歴史
1.1 結成?福田赳夫時代
1.2 安倍派四天王と会の分裂
1.3 森喜朗の派閥継承と亀井静香の離脱
1.4 森・小泉政権と自民党内最大派閥への躍進
2 歴代会長
3 現在の構成
3.1 役員
3.2 衆議院議員
3.3 参議院議員
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
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岸信介派の分裂を受けて1962年に結成された福田赳夫を中心とする「党風刷新連盟」が起源。1970年11月に佐藤栄作首相に勧められ「紀尾井会」として福田派が派閥として正式に旗揚げされた。
1972年まで7年に及んだ佐藤栄作政権の後継を巡る、いわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤の意中の人は福田であったが、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた。この挫折を機に、領袖福田のもと、田中派と「角福戦争」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって、三大派閥の中では勢力としては伸び悩み、1976年に悲願の福田赳夫政権誕生にこぎつけるものの2年後には大平・田中連合の前に総裁選で敗北した。
なお、1972年、総裁選で敗れた直後に保利グループと園田派(旧・森(清)派)を統合して「八日会」へと名称変更、1976年末、福田内閣の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散したが、福田退陣後に再結成の機運が高まり、1979年1月に清和会を結成した。出典は、東晋の元帝が詔で諸葛恢の統治を「政清人和(清廉な政治で自ずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『晋書』諸葛恢伝)。この旧「清和会」は略称ではなく正式名称である。後に自由革新同友会(石原派・旧中川派)を吸収する。
グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)内に事務局を設置し、同ホテルで毎年1回春頃に政治資金パーティーを開催することが慣例となっている。
安倍晋太郎が派閥会長であった際、派閥内の三塚博・加藤六月・塩川正十郎・森喜朗の4人の実力者を称して安倍派四天王と呼んだ。竹下派七奉行と比較される。その後、安倍の後継会長を三塚・加藤が争い(この抗争は両者の名を取って「三六戦争」と呼ばれる)、森の支持を得た三塚が1991年6月、清和会会長に就任した。
同年、三塚は総裁選に出馬するが、加藤がこれに反し、竹下派の推す宮澤喜一支持を表明した。そのため加藤は同年10月に三塚派を除名され、政眞会を結成、のちに自民党も離脱することとなる。加藤の離脱後、三塚を支持した、森、塩川、小泉、玉澤徳一郎、中川秀直等と、加藤を支持したものの清和会に残った亀井静香、平沼赳夫、中川昭一、尾身幸次、町村信孝等の間にしこりが残ったと言われている。