福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(福岡県福岡市)に置かれた。藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(のち直方藩)があった。
目次
1 略史
2 黒田騒動
3 歴代藩主
4 支藩
4.1 秋月藩
4.1.1 歴代藩主
4.2 東蓮寺藩
4.2.1 歴代藩主
5 家老
6 関連項目
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慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの戦功により筑前を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津城主の黒田長政が同じく関ヶ原の戦功により筑前一国50万2千石を与えられたことにより当藩が成立した。
入府当初の居城は名島城であったが手狭であったので、慶長6年(1601年)福岡城築城に着工し、慶長11年(1606年)に完成した。
2代・忠之は父・長政の遺言により弟の長興に5万、高政に4万石を分知した。これにより石高は41万2千石となった。忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きた。
3代・光之は領内の検地を行い、43万3千石の石高目録を幕府に提出し認められ、これが表高となった。
6代・継高は直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千石となり廃藩置県までこれが表高となった。
9代・斉隆は天明4年(1784年)修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として今日にその名を残している。
幕末には、慶応元年(1865年)当初、勤王派が主力を占めるが佐幕派の巻き返しにより、家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、14名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった。
その後、慶応4年(1868年)勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。
明治3年、(1870年)、日田県知事松方正義より福岡藩が太政官札を偽造してそれが日田県内に流通しているとする告発が挙げられる。その後の明治政府の調査の結果、松方の告発が事実で福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代・長知は藩知事を解任され、後任の藩知事には有栖川宮熾仁親王が就任した。その後、廃藩置県により福岡県となった。
黒田騒動(くろだそうどう)、栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。
2代藩主・忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、彼とその側近と筆頭家老・栗山大膳など宿老との間に軋轢を生じ、お家騒動へと発展した。忠之は児小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に幕府より咎めを受けるに至った。
改易を危惧した栗山大膳は一計を案じ、寛永9年(1632年)6月、藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。このため幕閣は大膳を尋問した。そこで藩の取り潰しを逃れるため一計を案じたことを陳述し、幕閣はこれに感銘した。寛永10年(1633年)2月、幕府は所領安堵の触れを出し10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥国の盛岡藩預かりとなった。
外様 50万2千石→41万2千石→43万3千石→47万3千石 (1600年 - 1871年)
長政(ながまさ)〔従四位下・筑前守〕
忠之(ただゆき)〔従四位下・筑前守、侍従〕 分知により41万2千石
光之(みつゆき)〔従四位下・右京大夫、侍従〕 石高直しにより43万3千石
綱政(つなまさ)〔従四位下・肥前守、侍従〕
宣政(のぶまさ)〔従四位下・肥前守、侍従〕
継高(つぐたか)〔従四位下・筑前守、侍従〕 直方藩廃藩により47万3千石
治之(はるゆき)〔従四位下・筑前守、侍従〕
治高(はるたか)〔従四位下・筑前守、侍従〕
斉隆(なりたか)〔従四位下・筑前守、侍従〕
斉清(なりきよ)〔従四位下・備前守、侍従〕
斉溥(なりひろ)のち長溥(ながひろ)〔従四位下・美濃守、侍従〕
長知(ながとも)〔正二位・下野守、左近衛権少将〕