福山大空襲(ふくやまだいくうしゅう)とは、1945年8月8日22時頃 マリアナ諸島テニアン島の基地より発進したアメリカ陸軍戦略航空軍所属のB-29爆撃機91機により福山市が受けた空襲である。
目次
1 概要
2 損害
3 戦果
4 慰霊碑
5 その他
6 外部リンク
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焼夷集束弾や普通爆弾などによりまず陸軍射撃場のあった北本庄地区などの市周辺部、次いで市中心部が無差別爆撃を受けた。この逃げ道を火の海にして退路を塞ぐ攻撃法は、日本本土空襲におけるアメリカ軍の常套手段であった。
当時の福山市にあった日本火薬(現在の福山日本化薬)・三菱航空機(現在の三菱電機福山製作所)・帝国染料などの軍需工場、帝国陸軍歩兵第41連隊司令部及びその付属施設、帝国海軍福山海軍航空隊が主要な目標とされた。
またこの福山を襲った編隊のうち1機が帰路に岡山県浅口郡北木島村(現在の笠岡市北木島町)へ爆弾を投棄し、死者が出ている。
損害
犠牲者は死者354人 重軽傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人(当時の福山市民の81%が被災)
国宝福山城天守閣などの貴重な文化財も焼け落ちた。
戦果
なし なお市内には複数の高射砲などが配置されており反撃したが戦果はなかった。高射砲のうち、ひとつは川口小学校内に布陣していたという。
空襲の犠牲者の慰霊碑は福山中央公園に建立されている。この慰霊碑は「追憶」と命名されており、空襲から逃げ惑う母子3人の銅像である。この像のモデルは翌日に田んぼで火に撒かれ絶命していた母子3人(氏名も判明しており、市内の主婦と彼女の2名の子供であった)で、彼女らを慰霊する主旨となっている。毎年空襲の慰霊祭はこの像の前の広場で執り行われている。なお慰霊碑は1967年に建立され、公園整備により2008年に周辺が新調された。なお空襲の慰霊碑の隣には広島原爆の慰霊碑も建立されているが、これは8月6日の広島市への原爆投下の救援のために福山市駐留の部隊や勤労奉仕の市民が向かい、入市被爆の犠牲になった者が少なくなかったためである。
その他
福山海軍航空隊などへのアメリカ海軍艦載機の機銃掃射攻撃は福山大空襲以前にも頻繁に行われていた。
当時、福山市は人口6万人程度の小都市で市内とその周辺には阪神方面からの学童疎開してきた子供が多く滞在していたため、市民から「まさか空襲の標的にはならないだろう」という声もあった。なお、空襲の被害についての展示は福山市人権平和資料館で行われている。
アメリカ軍が空襲前に空中から撒いたプロパガンタビラには空襲予告都市に「福山」の名があったが、当局がすぐに回収したため、ほとんど伝わることはなかった。
外部リンク
福山市人権平和資料館: ⇒福山空襲の実相
(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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カテゴリ: 太平洋戦争の戦略爆撃 | 福山市の歴史 | 1945年 | 日本の歴史関連のスタブ項目 | 戦争スタブ
更新日時:2008年9月6日(土)12:27
取得日時:2008/10/16 09:18