磐城平城
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磐城平城(いわきたいらじょう)は、陸奥国磐前郡(現:福島県いわき市)にあった磐城平藩の藩庁のである。別名は龍ヶ城(りゅうがじょう)。
目次

1 歴史・沿革

2 地理

2.1 城周辺

2.1.1 城下町・磐城平



3 考古資料

3.1 遺構


4 観光

4.1 アクセス


5 関連項目

6 外部リンク

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歴史・沿革

関ヶ原の戦いの後に、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、代わりに新しく入った者が、江戸幕府譜代鳥居忠政である。1602年慶長7年)に、鳥居忠政が入ると、地名表記を「岩城平」から「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立し、翌1603年(慶長8年)に築城を開始し、12年の歳月を費やして梯郭式平城を完成させた。

天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、伊達政宗が治める仙台藩への牽制であった。

1868年(慶応4年)の戊辰戦争において、奥羽越列藩同盟に与した当時の家老・上坂助太夫は、明治政府軍に攻められたため、自ら城に火を放ち逃走した。


地理


城周辺


城下町・磐城平

鳥居忠政が磐城平に転入すると、再編成による都市づくりは、それまでの飯野平城を中心とした町から、武家町・町人町・寺町を分ける近世城下町に変えた。1604年(慶長9年)には基礎が完成し、町人たちに、防災のための手桶や梯子を用意することと、清掃の徹底・町木戸の使用を命じた。更に、十人組を作らせ、治安の責任の一端を持たせた。城下の人々の中で、特別な権利を持った商人の多くは、かつての岩城氏の家臣や、門閥商人出身者であった。

その他、紺屋町は、古くは今の八幡小路にあり、磐城平城が建築される際に、現在地に移された。また、菩提院町は古くは禰宜町といわれたり、立町は御徒町といわれていた。磐城平城下5口(長橋口、久保町口、北目口、鎌田口、新川町口)を通る馬の数は、1口で760余りであった。また、磐城平城下には職人も多く、鍛冶町には、刀鍛冶の根本国虎や鈴木貞則などの名工がいた。

武家町
六間門・揚土・八幡小路・道匠小路・曲松・杉平・桜町・掻槌小路・田町・柳町・梅香町・四軒町・白銀町・番匠町・鷹匠町・仲間町 など

仲間・足軽町
仲間町・風呂ノ沢・胡麻沢・新町・立町・久保町 など

町人町
一町目・二町目・三町目・四町目・五町目・十五町目・久保町・紺屋町・研町・長橋町・材木町・菩提院町 など

町人町は町奉行の管轄だったが、内藤時代に作られた新川町・鎌田町・北目町は新しい町だったため、郡奉行の管轄となった。磐城平城下の玄関である長橋口・鎌田口・久保町口には、惣木戸が設けられた。現在では、長橋口が尼子橋北口(内郷御台境交差点)付近に、鎌田口が平大橋東口(鎌田交差点)付近に当たる。


考古資料


遺構

現在残っている遺構は、石垣・土塁・水堀であり、一部は丹後沢公園として残っており、この外には、岩城氏以来の歴史遺産を展示する龍ヶ城美術館が立地している。

しかし、城跡の大半は、個人所有の住宅地として払い下げられており、石碑の立つ城跡への立ち入りはできない(柵の外から眺めるのみ可能)。復元の話も何度かあったが、資金不足が原因でいずれも実現に至らなかった。1897年(明治30年)に常磐線を開通させる際には、水堀が一部埋め立てられた。塗師櫓石垣はいわき市の史跡に指定されている。

建築物として、掻槌門が市内平藤間の民家に、長橋門が市内平新川町の民家に、どこの門か定かではないが城門が市内平沼ノ内賢沼寺に、それぞれ移築され現存する。

尚、磐城平城跡の住所表記は、「いわき市平字旧城跡」となっている。


観光


アクセス

いわき駅北口より徒歩。


関連項目

日本の城一覧

大館城 (陸奥国)(飯野平城)

磐城平藩

飯野八幡宮


外部リンク

忘れかけられた城 磐城平城址(2002年8月14日撮影)

全国のお城・城跡 磐城平城(2001年5月3日撮影)
カテゴリ: 福島県の城 | いわき市

更新日時:2008年6月22日(日)08:56
取得日時:2008/08/16 18:57


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki