磁器(じき)とは、高温で焼成されて吸水性がなく、叩いた時に金属音を発する陶磁器を一般に指す。しかし西洋などでは陶器と区別されない事が多く、両者の間には必ずしも厳密な境界が存在するわけではない。素地が白くて透光性があり、機械的強さが高いという特徴がある。また、焼成温度の高い硬質磁器と、比較的低温で焼成される軟質磁器に分けられる。
目次
1 特徴
2 原料
3 作製方法
4 歴史
5 関連項目
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磁器は半透光性で、吸水性がない。また、陶磁器の中では最も硬く、軽く弾くと金属音がする。焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分けられる。日本の主な磁器として有田焼(伊万里焼)や九谷焼などがある。英語では、産地名をつけた場合は、陶磁器共通に(産地名)+wareと言うが、磁器自体を指す場合は、porcelainという。単に china ということもある。
ガラスは磁器よりはるかに古くから知られていて、単に磁質化(ガラス化)するのが磁器製作の目的ではない。したがって、ガラスには不可能な繊細な絵付けを施すことや、純白化ないし陶器のようなあたたかみのある質感にする目的で故意に混ぜ物をするなど、目的に応じたさまざまな工夫が施されていなければ何の意味もない。
焼結して多結晶となる粘土質物、除粘剤となり可塑性を向上させ、かつフラックス(融剤)として融点を下げる石英(SiO2)、ガラス相を形成し強度を向上させ、石英と同種の効果も示す長石の3種類が主原料である。粘土質物はSiO2(45〜70%)、Al2O3(10〜38%)とFe2O3(1〜25%)、長石は正長石(K2O ?Al2O3 ?6SiO2)とソーダ長石(Na2O?Al2O3 ?6SiO2)から構成される。粘土質物にはカオリンが使用され、この他、軟質磁器には石灰、ボーンチャイナには骨灰(リン酸カルシウム)が添加される。硬質磁器はカオリンが70%以上であり、軟質磁器は長石と石灰が約60%を占め、ボーンチャイナは骨灰が時に半分以上となるなど、磁器の種類によって組成は大きく異なる。
原料処理では、まず透水性向上のために長石・石英を細かく粉砕する。続いて不純物を水篩などで除去した後に原料を全て混合し、荒練りと菊練りと呼ばれる作業で練り上げる。これにより土中の水分を均一にして乾燥による歪みを防止するとともに、空気を抜くことで成形性を向上させる効果がある。練った土はしばらく放置し、水を細部まで浸透させると同時に、繁殖したバクテリアの排泄物により可塑性を向上させる。
練られた土は、まずロクロやヘラで大まかな形が作られる。これを乾燥させて水分が10%程度になったら仕上げ加工を施す。複雑な形状の製品(人形など)は泥しょう鋳込法等により成形する。
続く焼成は、通常2〜3段階に分けて行なわれる。最初に700℃前後での素焼きにより、水分をとばす。この時まず300℃付近で素地の水分が蒸発するが、十分に乾燥させていないと蒸気圧によって形状が崩壊する。さらに450〜600℃でカオリンなどの結晶中の結晶水が放出されて大幅に素地が収縮する。素焼きを終えたこの段階で釉薬をかけ(施釉)、続いて1300℃程度で1次焼成を行なう。これによって釉薬はガラス化し、光沢や色が得られるとともにガラス層が粒界亀裂の進展を抑えるために強度が向上する。さらにこの後、絵付を施してから800℃前後の2次焼成を行なう場合もある。 磁器は焼成中に高温で融解しつつ、ムライトと呼ばれる針状鉱物結晶を生成するため、成分の多くが融解しても形状を維持し続け、ガラス質の器質となる。
顔料によって磁器に模様を描く作業は絵付と呼ばれる。絵付には施釉前に行なう下絵付と施釉後に行なう上絵付がある。下絵付は2次焼成の必要がないため低コストだが、釉薬と反応しない安定な顔料しか使えない。このため金属塩化物や硝酸化合物が主に使われ、緑、青、黄などを発色する。コバルトブルーの染付は下絵付によって描かれる。これに対し、上絵付は2次焼成の手間がかかるものの、熱処理温度が低いため使用できる色が多く、特に赤色顔料や金彩を使用できるのが特徴となっている。
磁器が発明されたのは11世紀の北宋と言われ、景徳鎮が産地として特に有名である。また俗説では、早くから高麗に焼成技術が伝わり、青磁が作られ、その技法が日本にもたらされたかのようにいわれている。しかし、これには誤解がある。中国語で言うところの「磁(器)」とは磁州で発見された白い土を用いたものの総称で「青磁」「白磁」を含んでいるが、これは紀元前後から発展してきたまったく別の系統に属しており、中世景徳鎮などで主に染付けのためにつくられた完全な磁器とは違い、上掛けした白土と灰釉、つまり釉薬によるものである。朝鮮に伝わったものは越州龍泉窯などでつくられた前者であって、日本で言うところの焼成磁器については景徳鎮に学んだとみるのが正しいようである。
伝説では豊臣秀吉の唐入りによって、朝鮮半島から連れてこられた陶工が、肥前で焼いたことから製作が始まるとされる。この日本式の磁器は、朝鮮陶工・李参平(金ヶ江三兵衛)が有田近郊の泉山で発見したといわれる、可塑性と磁器化する能力を持つ陶石の粉末を原料とすることに特徴がある。彼らは機密保持のため束縛をうけたが、またそれと共に士分を与えられ厚遇された (現地では儒教的社会観から商工業者の身分は低かった)ので、家族や縁者も呼び寄せ、以後日本の磁器生産が盛んになったという。ただし、朝鮮半島の陶質青磁などに最も近いとされる古唐津は、古窯の調査から16世紀前半にさかのぼり、李がつくったといわれる初期伊万里(古伊万里の前段階)は、まだ李朝白磁の上手物の域を脱していない。なお、有田では李参平らによって当初は染付磁器が作製されていたが、17世紀後半には景徳鎮の影響を受けた金襴手などの色絵磁器が主流となっていった。
景徳鎮はなぜ磁器になったのだろうか。もともと景徳鎮でも青磁を作っていたが、もちいていた近傍の高嶺(カオリン)という山の白土は、超高温で焼かなければ固まらない難物だった。そこで出来た青白磁はすでに磁質(ガラス)化していたが、「影青(インチン)」といって青みがうすく、氷のような硬く冷たい色をしていた。