石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日-1979年5月9日)は、福井県福井市生まれの裁判官。第5代最高裁判所長官。
武道家でもあり、全日本剣道連盟会長を務め、一刀正伝無刀流剣術第5代宗家、小野派一刀流剣術(弘前藩伝)免許皆伝、宝蔵院流高田派槍術第18代宗家でもあった。
祖父・石田磊は福井商工会議所の初代会頭、九十二銀行頭取、福井市議会議長。父は福井県庁勤務。妻の恭子は剣道師範の佐々木保蔵の娘。1973年11月3日勲一等旭日大綬章を受章。
略歴
福井中学在学中、父が46歳で死去。東京帝国大学医学部1年の兄を頼り、一家で上京。
錦城中学(後の錦城高等学校)に編入。第一高等学校では、撃剣部(剣道部)に所属。師範の佐々木保蔵に出会う。東京帝国大学法学部卒。刑事裁判官の道を進む。
1934年4月 帝人事件を担当。左陪席判事として判決を起案し、事件がまったくの空中楼閣であることを強調するため、「水中に月影を掬するが如し」という名文句を使い、全員に無罪を言渡し、「司法界に石田あり」と一躍注目される。
1947年 司法省人事課長。その後、最高裁判所人事課長、人事局長、事務次長、東京地方裁判所長、最高裁判所事務総長、東京高等裁判所長官を歴任。
1963年6月6日 最高裁判所判事に就任。
1969年1月11日 横田正俊の後を襲い、最高裁判所長官に任命。裁判官の任命権者としてリベラルの傾向が強かった青年法律家協会系の裁判官を排除した。
1970年7月 八幡製鉄所献金事件で有名な八幡製鉄事件の裁判を担当。営利法人の政治活動と、その一環としての会社による政治献金を認め、以降の政治献金問題において必ず言及されるケースとなる。
1973年5月19日 最高裁判所長官を定年退官。後任は村上朝一。
1974年3月、全日本剣道連盟の木村篤太郎名誉会長の推薦により、全日本剣道連盟会長に就任。
1976年6月22日、「英霊にこたえる会」の会長(中村武彦の説得による)に就任。
1978年「元号法制化国民会議」(のち「日本をまもる国民会議」、日本会議の原型の片方)を結成。
参考文献
山本祐司『最高裁物語(上・下)』(日本評論社、1994年)(講談社+α文庫、1997年)
最高裁判所長官 この「石田和外 (裁判官)」は、人物に関する書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正
前任:
横田正俊
1966年8月6日-1969年10月31日石田和外
1969年1月11日-1973年5月20日後任:
村上朝一
1973年5月21日-1976年5月24日
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更新日時:2008年4月29日(火)09:45
取得日時:2008/07/27 13:20