オイルショックは、1970年代に二度あった、原油の供給逼迫および価格高騰と、それに伴う経済混乱のことを指す。石油危機、石油ショック、オイルクライシス(oil crisis)とも称される。
英語圏では、オイルショックは、(oiru shokku)と和製英語扱いされている。
目次
1 第一次オイルショック
2 第二次オイルショック
3 オイルショックの与えた影響
4 原油価格の高騰
4.1 第三次オイルショック(スーパーオイルショック)の可能性
5 関連項目
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1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格の21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。
アメリカと同盟関係にあった日本では、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外す様に交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。公定歩合の推移。インフレ抑制のため1974年頃と1980年代初頭は高い金利になっている。
更に石油価格の上昇は、エネルギーを中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。日本でも、ニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、オイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速されることとなった。国内の消費者物価指数で1974年は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制す。結果1974年は-1.2%と戦後初めて、マイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。
トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動)、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。
競争力を失った「構造不況業種」を縮小させ、成長分野に資源を振り向ける「積極的調整政策」。素材産業の不振、加工組立産業の成長。
雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)
テレビの深夜放送の休止。特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止と日中(総合ではUHFテレビ試験放送を含め月〜金曜日の15時〜16時台前半。なお、国会中継や高校野球中継が行われた場合は休止時間帯でも放送されていた。教育では14時30分〜17時30分の内1〜3時間)の放送休止。( ⇒その当時のNHKにおける休止アナウンスの録音)なお、民放5社が深夜放送の自粛を決定したのは、1973年12月14日。
優良企業の銀行離れが進む。間接金融から直接金融(株式発行など)、内部資金依存へ
また、省エネルギー対策の一環として深夜の電力消費を抑制しようと、前述の深夜放送休止のほか、ネオンサインの早期消灯やガソリンスタンドの日曜休業などの処置が取られた。
日本の国産旅客機YS-11の生産中止はオイルショックの影響だと一部で語られることがある。確かにYS-11の生産中止の時期は第一次オイルショックと重なるが、すでに、1970年末の政府決定により生産が中止されていたので、これは誤りである(正確には約20機分の追加生産用の資材調達が中止になった)。
1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇(余談だが、4段階目の値上げについては総会で合意が形成できなかった)。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。
しかし、第一次での学習効果、省エネルギー政策の浸透(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第一次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた)、企業の合理化効果などにより、日本経済に対する影響は第一次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第一次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。