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石井紘基(いしい こうき、1940年11月6日 - 2002年10月25日)は日本の政治家。民主党などで衆議院議員として活動した。元秘書の石井ターニャ(政治文化研究所代表)は実娘。
目次
1 経歴
2 日本の真の国家予算額の追求
3 疑惑の死
4 著作
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
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東京都世田谷区に生まれる。世田谷区立池之上小学校、成城学園中学校高等学校、中央大学法学部卒業。早稲田大学大学院を経て、モスクワ大学大学院修了。学生時代は学生運動に参加、ソビエト連邦への6年間の留学、ナターシャ夫人との結婚、帰国、そして政治家となった。
社会民主連合事務局長で、衆議院議員選挙での同党公認が決定していたが、1992年秋に突如日本新党へ移籍。1993年、第40回衆議院議員総選挙で日本新党から旧東京3区にて立候補し、初当選。羽田内閣において総務政務次官に就任。自社さ連立時代に国民会計検査院を創設し代表を務める。日本新党で初当選しながら細川護煕と袂を分かち、新進党結党には不参加で自由連合や新党さきがけを経て1996年、民主党の結党に参加。
議員活動としては、主に日本の政府支出の無駄使いに関して、フィールドワークを持っていた。国会議員が持つ「国政調査権」を使った徹底的な調査し、税の無駄や政府の不正の追及をしていた。そのため、「国会の爆弾発言男」と呼ばれていた。1997年11月、衆議院で防衛庁調達実施本部背任事件をねばり強く追及し、マスコミをリードし、遂に東京地検の強制捜査にまで発展させた。東洋通信機だけでなく、年間約2兆円にのぼる防衛庁の装備品発注予算が長期にわたって不正に使われていたことがわかった。
2000年、映画「バトル・ロワイアル」に関して、青少年に悪影響を与えるとして、上映に反対し規制を働きかけようとした。
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中がどうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」と発言。
石井がアピールしていたのは以下の通りであるため利権を持つ議員や官僚、企業から忌み嫌われ怖れられていた。
天下り会社(石井紘基の調査で約3000社もあることが判った)を整理し、国が支出した資本や増えすぎた資産を回収し、国民に還元する。
石井紘基が代表を務める「国民会計検査院-国会議員の会」は、かつて、天下り会社の整理と会計検査機能強化のための法案を発表した。
国と地方自治体の系列企業(天下り会社)が占めている膨大な仕事を民間の中小企業に吸収させる。
第154回国会において石井紘基は、一般会計・特別会計・財政投融資から重複部分を計算し、日本の年間歳出(国家予算)は本当は約200兆円であることを指摘し、当時の財務大臣塩川正十郎は「否定するようなこともございません。」と述べ否定しなかった。
また参考人として出席していた格付け機関ムーディーズのトム・バーンは、日本政府の債務について「平時における非常に大きな債務であるというふうに考えており、またさらに増大するものと思っている」と延べ、日本政府の債務状況は国際的に非常に高水準かつ増大の見通しが強いとの見解を示した。
2002年10月25日、世田谷区の自宅駐車場で指定暴力団山口組系の偽右翼団体『守皇塾』(構成員は本人一人のみ)代表・伊藤白水に柳刃包丁で左胸を刺されて死亡。享年62。日本国憲法下において他殺された現職国会議員は浅沼稲次郎、山村新治郎に続いて三人目(丹羽兵助を他殺に含めると四人目)。伊藤白水は「家賃の工面を断られたため、仕返しでやった」と供述したが、石井が国会議員や官僚の腐敗を徹底追及していたことから暗殺されたとみる人も多い(死亡直前の「これで与党がひっくり返る」などという発言等が挙げられている)。伊藤白水は2005年11月15日、最高裁で無期懲役の判決が確定した。