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短歌(たんか)は、和歌の一形式で、五・七・五・七・七の五句体の歌。記紀歌謡末期・万葉集初期の作品に成立し、古今を通じ広く行われ、長歌が作られることがなくなるにつれて、和歌といえば短歌をさすようになった。
目次
1 短歌の定義
2 短歌の歴史
2.1 上代
2.2 中古
2.3 中世
2.4 近世
2.4.1 明治・大正
2.4.2 昭和
2.4.3 戦後
2.4.4 平成
3 短歌の技法
4 短歌の分類
5 関連項目
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五・七・五・七・七の五句体(31モーラ)の詩形は、その時代に盛んであった長い詩形との関連で呼び名が変わった。奈良時代には長歌に対して短歌、平安時代以降は漢詩に対して和歌、明治時代後半からは新体詩にたいして再び短歌と呼ばれて現在に至っている。一人称の詩形、私性の詩、と呼ばれるほど、作者の主体性が強い表現形式である。狂歌とは文体を同にするが、定義では全く異なるものである。
短歌の歴史和歌の歴史の項も参照せよ。
感情の高まりから発せられた叫び・掛け声が次第に成長して、祭りや労働の際に集団でうたわれるうたとなったものを上代歌謡といい、『古事記』『日本書紀』にとられた上代歌謡を記紀歌謡という。この中に五・七・五・七・七の五句体の歌が見られる。長歌の末の反歌が独立してできたとも言われる。
その後、統一国家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持ちを個々に表現する歌が盛んに作られるようになった。『万葉集』にはそういった歌が多く収録されている。集団でうたわれる歌謡においては、例えば旋頭歌(五七七、五七七)は、片歌(五七七)が集団の掛け合いで問答の形になったものだが、「五七七?」「五七七。」の問と答の末尾はしばしば同じであった。一人でうたうようになると、重複はさけられ「五七?」「五七七。」→「五七五七七」の短歌形式となった。このような歌体の変化から、『万葉集』では9割が短歌となっている。
平安時代初期には漢詩文が公的な文学として和歌を圧倒したが、平安時代中期には国風文化への自覚が高まり、仮名文字の発達とあいまって和歌が次第に公的な場に復活し、歌合も行われるようになった。
延喜5年(905年)醍醐天皇の勅命で、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の4人により、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が撰進された。理知的・観念的な歌風が特色である。それから半世紀のちの村上天皇のころに『後撰和歌集』が、さらに半世紀後の一条天皇のころに、『拾遺和歌集』が撰進された。前者は貴族の贈答歌が中心で、物語化の傾向があるのに対し、後者は典雅で格調正しい『古今和歌集』の伝統を受け継ぐものになっている。『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三集を三代集と呼ぶ。
平安時代後期には『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』が撰進された。貴族社会が変化する中で、三代集の伝統を乗り越えるための苦悶の半世紀であった。源平の争乱の後、後白河院の命で藤原俊成が『千載和歌集』を撰進し、平安時代末期の和歌を一つの高みに導いた。『古今和歌集』から次代の『新古今和歌集』までの8つの勅撰集を八代集という。
鎌倉時代に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心のより所にしたため和歌は盛んに詠まれた。鎌倉への対抗意識もあって和歌に非常な熱意を示した後鳥羽院の命で撰進されたのが『新古今和歌集』である。技巧化は更に進み、現実の体験ではなく、頭の中で作り上げた世界を詠んだものがほとんどを占める一方で、自然への愛や人生観を詠んだ西行、万葉調の源実朝も尊ばれた。『新古今和歌集』編纂の中心人物だった藤原定家とその子の為家が亡くなると、家系も歌壇も二条派・京極派・冷泉派の三派に分かれた。南北朝ごろから、和歌は僧侶や武士を中心に詠まれるようになるが、形式主義に流れた和歌は衰退していく。
俳諧に比べて伝統的・貴族的な和歌の革新は遅れがちであった。元禄期には因襲性の批判から伝統への反省が生まれ、日本の古代精神を明らかにする国学が発生した。近世後期になると京都でも和歌革新の動きが起こり、桂園派が登場した。