矢口 洪一(やぐち こういち、1920年2月20日 - 2006年7月25日)は、日本の裁判官、第11代最高裁判所長官。父も京都大学卒業の裁判官。妻は一子。1993年11月3日勲一等旭日桐花大綬章受章。死後、従二位に昇叙された(生前の位階は正七位)。京都市生まれ。
目次
1 略歴
2 キャリアの特徴
3 公害問題への取り組み
4 長官在任中の取組み
5 後任の長官推薦
6 著書
7 参考文献
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略歴
第三高等学校、京都帝国大学法学部卒業
1943年 高等文官試験司法科試験に合格していながら、卒業と同時に海軍の法務見習尉官
1945年 終戦のときは、法務大尉、佐世保鎮守府軍法会議で迎える。司法修習は高輪1期
1948年 大阪地方裁判所
1950年 最高裁判所人事局付
1952年 東京地方裁判所
1954年 横浜地方裁判所
1955年 最高裁判所民事局付
1957年 最高裁判所民事局第二課長
1958年 最高裁判所経理局主計課長
1959年 最高裁判所経理局総務課長兼営繕課長
1962年 東京地方裁判所
1962年 最高裁判所総務局制度調査室長
1964年 東京地方裁判所
1968年 最高裁判所民事局長兼行政局長
1970年 最高裁判所人事局長
1976年 最高裁判所事務次長
1977年 浦和地方裁判所所長
1978年 東京家庭裁判所所長
1980年 最高裁判所事務総長
1982年 東京高等裁判所長官
1984年 最高裁判所判事
1985年 最高裁判所長官
1990年 最高裁判所長官を退任
2006年 下咽頭癌のため逝去、享年86
裁判官生活の3分の2を法服ではなく背広姿で過ごした人は、矢口以外にはなく、その守備範囲は広い。事務総長をはじめ、総務・人事・行政・民事・経理と7局のうち、5局までを経験した。普通は、この中の1局でも担当すれば、最高裁行政の専門家として重きをなすのだが、矢口の場合は想像を超える最高裁の表裏のすべてに通じていた。そのため、「ミスター司法行政」の異名を取った。
熊本水俣病(チッソ)、新潟水俣病(昭和電工)、イタイイタイ病(三井金属鉱業)、四日市ぜんそく(昭和四日市石油・三菱化成(現:三菱化学・三菱樹脂・三菱モンサント・中部電力・石原産業)の四大公害訴訟のときは、民事局長として、被害者の立証の難しさを緩和する理論を提唱し、早期解決に尽力した。
1988年、竹崎博允判事(当時46歳)を米国に派遣、1989年、山室惠判事(当時42歳)を米国に派遣、1990年、白木勇判事(当時45歳)を英国に派遣し、陪審制度及び参審制度の調査を行った。しかし、陪審・参審制度の導入を既定の方針とするのではなく、「究極において司法制度のあり方を決めるのは国民」という立場から、あくまで長期的な検討課題の一つとして位置づけた。この他、弁護士任官制度の整備、裁判傍聴人のメモ解禁など、国民と司法の距離を縮める必要性、裁判を法曹の専売特許にしてはいけないという思いから、様々な改革を行った。また、簡裁・地家裁支部の統廃合を推進した。
1990年2月に矢口が定年を迎えるときに、後任の最高裁判所長官としては、最高裁判所の経理局長を務め、最高裁判所の新庁舎を建て、最高裁判所判事として4年3か月のキャリアをもつ大内恒夫が有力と見られていた。しかし、矢口が選んだのは、最高裁判事15人の中で2番目に若い草場良八であり、当時、13人飛び抜き人事といわれた。この背景には、7ヶ月前の1989年の参議院選挙での自民党の惨敗による与野党逆転がある。衆議院でも同様のことがあれば、社会党が最高裁長官にリベラルな学者を据えるかも知れないという危機感があった。憲法第6条は、「天皇は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」と定めており、政権を手に入れた陣営が現在とは異なる最高裁判所に変えることができるからである。そこで、自民党政権が下野(事実この予感は3年後に的中する)しても、最高裁判所長官人事にまでは影響が及ばないようにするため、70歳の定年まで2年しかない大内より、5年9ヶ月ある草場を選んだという。