この項目では行政区画ならびに歴史地理学においての「県」について説明しています。
明治維新の以降の日本の「県」については都道府県をご覧ください。
これ以外の「県」の用法などについては県 (曖昧さ回避)をご覧ください。
県(けん)とは、地方のための行政機関の一種。正字の「縣」は釣り下がる意。元は中国の地方行政の名称で官庁を指したが、県の長の管轄する範囲も表すようになった。現在の日本では地方自治法施行後、市町村を包括する広域の地方公共団体となり、県の事務所は県庁といい、法人格をもつ。
目次
1 概要
1.1 県の歴史
1.2 県の役割
2 日本の県
2.1 日本語訳としての「県」
3 中華人民共和国の県
4 中華民国の県
5 その他の国の県
5.1 現在の県と県に訳される行政区画
5.2 過去の県と県と訳される行政区画
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
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県の制度が始まったのは春秋時代に遡る。当時の県は辺境の地に設けられていた。秦・晋・魏などの大国は新たに併合した地方に県を設けた。春秋後期になると県制度は内地にまで及ぶこととなり、代わって辺境へは郡が設けられるようになった。郡の面積は県よりも広く、人口は希薄で、地位は県よりも低かった。戦国時代になると郡が発展していくと同時にその下へ県を設けるようになった。こうして始皇帝による統一で郡県制が確立し、全国36郡の下に県を設けた。隋唐以後は県は府、州(郡)、あるいは郡、監、庁に隷属が変わっていった。
秦朝時、郡が県を管轄。
漢朝時、郡、国が県を管轄。
漢朝以後、それぞれの時期、それぞれの地方あるいは同一の管轄域で行政区画制度が異なり、郡・府・州あるいは軍・監・庁が管轄。
国民政府時、初めは道の所轄、その後道制を廃止して省(特別行政区)の直轄。その後行政督察区、直轄市あるいは特別行政区の管轄。
1949年以後、行政督察区の名称の変更に伴い、専区(行政督察専区)、地区あるいは地級行政区の管轄。
一般に領域国家は、領土を地方に分割して経済的軍事的な効率を得る必要がある。しかし軍事面では、大きすぎる分割は叛乱などの温床ともなり得るので、中央政府の支配力を越えない範囲に限定しようとする。最も簡単な区分は国と県の二階層である。軍事的な要素を重視した場合は、五人または五世帯まで幾層にも細分化される。封建国家では、与えられた領地を分割することで行政区画が深化した。
歴史的には、古代の中央集権国家において、中央政府から派遣される地方官の事務所として、県を設置した。管轄する範囲は互いに排他的であったと考えられる。
古代の中央集権国家が破綻すると、地方の小領域が国家として割拠する時代が到来したが、各々の小国家内で県を設置することがあった。
近代社会の成立過程で、再び中央集権化されると小国家内の県を対等な基礎的行政区画とし、小国家をそのままか統合分割などで新たに県として設置することがあった。[1]
植民地の独立後や東西冷戦の解消後、中央集権体制だった国家は、規模の原理よりも市場の原理により地方分権の機運が高まった。これらの国家では補完性の原理により県を包括する大領域の行政区画を設置したり、[2]県の役割を基礎的行政区画の補完をする広域連合として位置付けることも行われている。[3]
詳細は都道府県を参照
日本では中国の制度や明治維新後は米仏普にも影響を受け、
面的な名称には、国・州・藩・郡・町・村・坊・郷・里・荘または庄・区。
線的な名称には、道・街・条・里・線。
点的な名称には、京・都・府・庁・県・市・駅または宿。
人的な名称には、使。
が用いられてきた。江戸時代に能登国を能州と書くなど、雅称として漢風の名称が広まっていたため、[4]「州>郡>県」の順に小さくなると受け入れられていた。[5]明治維新後の廃藩置県と県の統廃合分置により、面的な名称としても受け入れられ、「州>県>郡」と理解されるに至った。一方で「郡>村」の伝統的な関係と合わせ、「州>県>郡>村」の順に小さくなるような行政区分を基本的と考えている。このため県は第2層の行政区画として扱われる。[6]
漢字使用圏以外の国の行政区画の日本語訳としての利用でも、日本での順序に準じて用いられる。