直心影流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)は、日本の剣術の流儀である。正式名称は「鹿島神傳直心影流」(かじましんでんじきしんかげりゅう)。
いち早く竹刀と防具を使用した竹刀打込稽古を導入した流派であり、江戸時代後期には全国に最も広まった剣術流派である。薙刀術の流派である直心影流薙刀術とは直接の関係は無い。
杉本備前守(松本備前守のこととされる)を初代とするが、第7代となっている山田光徳(一風斎)が開祖である。
目次
1 歴史
1.1 薩摩藩での伝承
2 主な門人
3 関連項目
4 外部リンク
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岩槻藩(永井氏)の江戸詰の家臣であった山田光徳は木刀による試合で怪我を負い剣術修行を中断していたが、直心正統流の高橋重冶の道場で防具を用いて怪我を防止した稽古をしているのを見て、高橋重冶に入門した。天和3年(1683年)、直心正統流の皆伝を授かった山田光徳は流名を「直心影流」と改めた。
他の剣術流派が組太刀による形稽古をしている中、当流の原流派である直心正統流の頃から、いち早く竹刀打込稽古を導入しており、山田光徳から第8代の長沼国郷の時期にかけて、竹刀と防具を改良した。第9代・長沼綱郷(長沼国郷の養子)が沼田藩に仕官したことから、長沼家は代々、沼田藩で直心影流を指南した。また、長沼国郷の晩年に生まれた実子の長沼徳郷は、長沼綱郷より直心影流を学び、主家の永井氏の美濃国加納への転封により加納藩に直心影流が伝えられた。
竹刀打込稽古導入によって直心影流剣術は盛んとなり、藤川近義に始まる藤川派、団野義高(真帆斎)に始まる団野派、男谷信友の男谷派などの多くの分派が生まれた。(これらの分派と区別するため、直心影流剣術の正統である長沼家の系統を長沼派と呼ぶ場合もある)また、全国に広まり、示現流系の流派が大勢を占める薩摩藩にも伝わった(後述)。
これらの分派の中でも男谷派は、長沼派が上段の構えを使うことが多いのに対し、正眼の構えを中心にするなど、より竹刀での試合に適した内容に改め、また男谷信友が講武所の頭取であったこともあって、幕末に大いに栄えた。同時期の藤川派も藤川貞(整斎)が名人として名高かった。
また、長沼派も幕末には門弟2千人と号し、大いに栄えたが、長沼家の最後の伝承者である第15代の長沼称郷(可笑人)が明治初期に伝承を断念した。
男谷信友から流儀を継承した榊原鍵吉以降の男谷派については、1878年(明治11年)に野見錠次郎が継承したとする系統と、1894年(明治27年)に山田次朗吉が継承したとする系統とがある。
山田次朗吉は男谷派以外に藤川派も学んでいたため、山田が伝えた内容は榊原鍵吉以前の男谷派とも内容が異なるという説もある。明治中期に山田が伝書を焼き捨てたので、山田の系統では、現在、直心影流剣術の宗家は存在しないという立場をとっている。ただし、山田の死後、弟子であった大西英隆と大森曹玄が直心影流剣術の形を指導した。
野見錠次郎の系統は野見のひ孫の石垣安造によって存続している。
これ以外には、岡山新田藩(鴨方藩)伝の直心影流を修行し奥村二刀流を開いた奥村左近太は直心影流と奥村二刀流の両流を指導していた。また、龍野藩伝の直心影流剣術を伝えた富山圓の系統もある。
一般に薩摩藩は示現流系一辺倒だと思われているが、直心影流が藩校の造士館も含め藩内で大いに行われていた。薩摩藩では真影流と呼ばれることも多かった。
薩摩藩伝の直心影流は長沼国郷の弟子である鈴木藤賢(弥藤次)によって伝えられた。鈴木は元々は幕臣だったが、竹姫が島津氏に輿入れする際に従い、薩摩藩士となったのである。代々鈴木氏が継承して藩内にも大いに広まり、鈴木家の道場は「鈴木殿の稽古」(すずっどんのけこ)と呼ばれ畏敬されていた。江戸後期の坂口兼儔(作市)は名人といわれた。
薩摩藩での分派に深見有安(休八)の深見流がある。深見有安の養子の深見有正は、二の丸稽古所の師範17人の一人となった。
薩摩藩出身の著名人の直心影流(真影流)門人には、有馬新七、川路利良、牧野伸顕、等がいる。
有名な遣い手としては長沼国郷、長沼綱郷、藤川近義、藤川整斎、男谷信友、島田虎之助、榊原鍵吉、長沼可笑人、今井信郎、得能関四郎、山田次朗吉、長沼和郷、富山圓 等がいる。
関連項目
法定
外部リンク
⇒鹿島神伝直心影流
⇒武道振興會
⇒直心影流 直心伝習館
⇒日本伝統技術保存会
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カテゴリ: 直心影流剣術 | 剣術流派 | 日本文化関連のスタブ項目
更新日時:2008年9月21日(日)04:42
取得日時:2008/10/09 15:14