盛岡藩(もりおかはん)は、現在の岩手県中北部(陸中国・旧陸奥国中北部)から青森県東部(陸奥国)にかけての地域を治めた藩。、江戸時代に「不来方藩」から「盛岡藩」と改められた。一般に「南部藩」とも呼ばれるが、これは通称である。後に八戸藩と七戸藩が分かれた。藩主家は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は表高10万石であるが、内高は多く幕末に表高20万石に高直しされた。
同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、ここにまとめて記述する。
目次
1 歴史
1.1 鎌倉以来
1.2 江戸時代
1.3 明治維新
1.4 飢饉
1.4.1 飢饉による一揆
2 他地域との関わり
2.1 白石藩
2.2 蝦夷地との関わり
2.3 盛岡藩領と青森県
3 鉄器、鉄製品
4 歴代藩主
5 支藩等
5.1 八戸藩
5.1.1 概要
5.1.2 行政組織
5.1.3 歴代藩主
5.2 七戸藩(盛岡新田藩)
5.2.1 概要
5.2.2 歴代藩主
6 家老
7 脚注
8 関連項目
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甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸に上陸し、現在の青森県南部町相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。
天正18年(1590年)、南部信直が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して、所領の安堵状と朱印状を得て10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立し、慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、表高(軍役高)10万石の大名として認められた。このとき安堵された10ヶ郡は、現在の岩手・青森・秋田の3県にまたがっており、特に八戸地方や藩都が置かれた盛岡(現在の岩手県盛岡市)が栄えた。居城は、三戸城から九戸城(二戸)、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、盛岡城に移居している。
寛文4年(1664年)、第3代藩主の南部重直が、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に後継者選定と家の存続を事前に願って江戸で死去。重直の将軍への願いを知らされていなかったためか国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母実弟の七戸重信に与えて家を継がせ、同じく異母実弟(重信とも異母)の中里直好に新規に八戸2万石を与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。重信は天和3年(1683年)、新田開発高を幕府に届け出て高直しを願い、盛岡藩の領地域はそのままで10万石に復した。
文化5年(1808年)には、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直し(文化の高直り)が行われ、藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、蝦夷地(現在の北海道)警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられた。以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳(新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで、慢性的な赤字体質となり破綻寸前まで追い詰められる。文政2年(1819年)、盛岡藩から新田分5,000石を支給されていた分知旗本家(当時の当主・南部信誉)に新たに6,000石を支給し、支藩の七戸藩(別名:盛岡新田藩)を立てる(但し、盛岡藩から蔵米を支給され実体領を持たない大名で、七戸に藩の政庁を置くのは明治維新後の明治2年(1869年)のことである)。