皇別摂家(こうべつせっけ)とは、江戸時代に摂家を相続した皇族及びその男系の子孫たちのこと。
目次
1 概説
2 皇位継承問題との関連
3 現状
3.1 近衛家
3.2 一条家
3.3 鷹司家
4 現在「皇別摂家」とされている家系の一覧
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
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江戸時代に摂家を相続した皇族は、次の3人である。
第107代後陽成天皇の第4皇子で近衛家を相続した近衛信尋
第107代後陽成天皇の第9皇子で一条家を相続した一条昭良
第113代東山天皇の第6皇子の閑院宮直仁親王の第4王子で鷹司家を相続した鷹司輔平
江戸時代には、このほかに皇族出身の堂上家として、
第106代正親町天皇の孫の八条宮智仁親王の第3王子で源氏(正親町源氏)を称し広幡家を興した広幡忠幸
第112代霊元天皇の孫の有栖川宮韶仁親王の第4王子で西園寺家を相続した西園寺公潔
がいるが、いずれも男子を残すことなく死去しているため、ことさらに「皇別」として注目されることはない。
この言葉は、弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ造語である。太田亮が1920年(大正9年)に刊行した『姓氏家系辞書』のなかで近衛信尋を「皇別摂家の鼻祖」と呼んだのがこのことばの初出である。一部の愛好者のみがこのことばを細々と伝えてゆくなかで、摂家だけではなく、そこから新しく分家を興した者たち、養子に出て他家を相続した者たち、さらにはその男系子孫たちをも「皇別摂家」というカテゴリでくくるようになっていった。
「皇別摂家」が論じられる際に典拠とされるのは、ほとんどの場合『平成新修旧華族家系大成』のみである。同書に記載されていない家系や人物が「皇別摂家」としてとりあげられることはまずない。専門家にとっては「皇別摂家」は研究対象として取り組むだけの学問的価値がなく、アマチュアにとっては逆に研究対象としては能力的にその手に余るものだからである。なお、同書は、基本的に、霞会館が旧華族の当主と認定している者及びその遺族からの自己申告に基づいて編纂されており、当然、当事者にとって公表がはばかられる情報は掲載されていない。同書を史料として用いる際にはこの点に留意する必要がある。一方「皇別摂家」について同書に記載されている以上の情報を収集しようとすれば、必然的に一私人のプライバシーを侵す危険性を伴うことも知っておかなければならない。
一部の好事家、系図愛好家にしか知られなかった「皇別摂家」が再度脚光を浴びるのは、21世紀になってからである。彼らは、南北朝時代に分岐した伏見宮系のいわゆる「旧皇族」よりも現皇室に親等が近い。現皇室の男系の血統が断絶する可能性が高まり、2004年(平成16年)11月頃から小泉純一郎首相が皇位の女系継承を容認する皇室典範の改正を提起したことにより皇位継承問題が国民的議論として浮上すると、血縁が遠すぎて皇位継承者として国民の支持が得られないと反対派から批判された「旧皇族」に代えて、彼ら「皇別摂家」から皇位継承者を迎えてはどうかとの意見が男系維持論者の一部から提起された。しかし、皇族でなくなってからの期間は逆に「旧皇族」よりもはるかに長い。国民の間での知名度もきわめて低く、皇位継承者としての正統性の確立が見込まれないことから、この意見は現実的な解決策とはみなされていない。
信尋の男系の血統は、その後、信尋?尚嗣?基煕?家煕?家久?内前?経煕?基前?忠煕?篤麿?文麿?文隆と伝えられた。文麿は昭和初期に3度にわたって内閣総理大臣を務めた。第二次世界大戦の敗戦に際して旧満州でソ連軍に捕らえられた文隆が1956年(昭和31年)シベリアに抑留されたまま、正妻との間に子をなすことなく死去したあと、近衛家は文麿の娘温子が細川護貞と結婚して生まれた護W(忠Wと改名)を当主に迎え、近衛家の本家は「皇別摂家」ではなくなった。