白川 義則
1869年1月24日 - 1932年5月26日
生誕地伊予国・松山
所属組織大日本帝国陸軍
軍歴1884 - 1932
最終階級陸軍大将
部隊近衛工兵中隊
歩兵第21連隊
指揮歩兵第34連隊
歩兵第9旅団
陸軍省人事局長
陸軍士官学校長
第11師団
第1師団
陸軍次官・航空局長官(航空本部長)
関東軍司令官
陸軍大臣
上海派遣軍司令官
戦闘日清戦争
日露戦争
上海事変
賞罰勲一等旭日大綬章
勲一等旭日桐花大綬章(追贈)
功二級金鵄勲章(追贈)
男爵(追贈)
廟松山市・鷺谷墓地
東京都・青山霊園
白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元年12月12日) - 1932年5月26日)は、日本の陸軍軍人。上海派遣軍司令官。関東軍司令官・陸軍大臣・軍事参議官等を歴任するが、上海での天長節祝賀会でテロに遭って重傷を負い、それが元で死去する。陸軍大将勲一等功二級男爵。
目次
1 生涯
1.1 経歴
1.2 上海事変と停戦調印
1.3 虹口公園爆弾事件
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中学校を中退するも代用教員として働き、明治17年(1884年)1月陸軍教導団に入営する。明治19年(1886年)1月これを卒業し陸軍工兵二等軍曹に任官され、近衛工兵中隊に配属される。明治20年12月に士官候補生となり歩兵に転科、歩兵第21連隊付を経て明治23年(1890年)7月26日陸軍士官学校を第1期生として卒業し、明治24年(1891年)3月26日陸軍少尉に任官される。白川の同期には参謀総長兼議定官の鈴木荘六大将や、陸軍大臣・朝鮮総督宇垣一成大将がいる。明治26年(1893年)11月陸軍大学校に入学するが、明治27年(1894年)7月日清戦争のため中退し、同8月中尉に進級し11月から出征する。明治28年(1895年)7月に帰還し明治29年(1896年)2月、陸軍大学校に復校する。明治31年(1898年)2月大尉に進み、同年12月に陸軍大学校(第12期)を卒業し、歩兵第21連隊中隊長を補される。
明治32年(1899年)12月には陸軍士官学校教官に移る。明治35年(1902年)2月の近衛師団参謀の後、明治36年(1903年)6月陸軍少佐に任官され歩兵第21連隊大隊長を命ぜられる。この時日露戦争に出征し、戦中の明治38年(1905年)3月第13師団参謀に移る。同年9月帰還し、10月から陸軍省人事局にて勤務する。明治40年(1907年)3月中佐に進み明治42年12月、大佐進級を以って歩兵第34連隊長を命ぜられる。
明治44年(1911年)6月第11師団参謀長、大正2年(1913年)9月中支那派遣隊司令官、大正4年(1915年)任陸軍少将・歩兵第9旅団長と部隊勤務を経て大正5年(1916年)8月菊池慎之助の後任として陸軍省人事局長に就任する。大正8年(1919年)1月陸軍中将に進み陸軍士官学校長に就任、大正10年(1921年)3月には第11師団長に親補される。大正11年(1922年)8月第1師団長に移り、10月山梨半造陸軍大臣の下、陸軍次官に就任する。同11月から航空局長官を兼ね、この時勲一等旭日大綬章を受章する。翌年3月航空局長官は航空部本部長と改称される(兼任は継続)。大正12年(1923年)10月、関東軍司令官に就任し、大正14年(1925年)3月には陸軍大将に進級する。大正15年(1926年)7月軍事参議官に移り、昭和2年(1927年)4月から田中義一内閣の陸軍大臣に就任する。大臣在任中の昭和3年(1928年)6月4日、張作霖爆殺事件が起こる。これは関東軍の謀略によるもので、同軍参謀の河本大作中佐が首魁であった。