白善Y
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各種表記
ハングル:???
漢字:白善Y
平仮名:
(日本語読み仮名)はくぜんよう
片仮名:
(現地語読み仮名)ペク・ソニョップ
ラテン文字転写:Baek Seonyeop
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白善Y(ペク・ソンヨプ、1920年11月23日 - )は朝鮮戦争で大活躍した大韓民国の軍人・外交官・政治家・実業家である。日本語読みは「はくぜんよう」。弟に軍人、教育者の白仁Yがいる。
現在は日本の韓国植民地統治に協力したチンイルパ(親日派)の一人とされている。
目次
1 第二次大戦まで
2 朝鮮戦争
3 朝鮮戦争後
4 韓国国内での評価
5 日本国内での評価
6 著書
7 参考文献
8 脚注
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1920年、当時日本に併合されていた平安南道江西郡徳興里(現・朝鮮民主主義人民共和国)に生まれた。1939年、平壌師範学校を卒業後、教員になったが軍人としての夢が捨てきれず、満州国奉天の満州国軍官学校に進学、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・愛新覚羅溥傑の薫陶を受ける。卒業後は満州国軍の間島特設隊に配属され、八路軍や東北抗日聯軍など、反満州国運動や朝鮮独立運動に携わっていた武装組織の討伐に従事(同部隊の性格については当該記事参照)、1945年8月15日、満州国軍中尉として終戦を迎えた。
終戦後、北朝鮮に戻り゙晩植の元で建国運動に参加するものの、金日成支配下の共産化した北朝鮮に嫌悪感をしめし、1945年12月24日に大韓民国に脱北。設立間もない大韓民国軍に入隊、共産ゲリラの掃討や情報局長を経て1950年4月に開城を所轄とする第1師団長に任じられた。
1950年6月25日の朝鮮戦争勃発時には、北朝鮮の奇襲攻撃の中で巧みに後退しつつも勇敢に戦い、特に大韓民国が釜山一帯に追い詰められた釜山橋頭堡防衛戦線(洛東江防衛戦線)の一部である多富洞の戦いでは、自身マラリアにかかり高熱に浮かされるも、敗走する将兵達を引きとめ「2日間も補給が絶えたのに、よく頑張ってくれた、感謝の言葉もない、だがもう我々には下がる所はない。大韓民国を滅ぼしてはならない気持ちは皆同じである。今から突撃に行こう、私が先頭だ、もし私が気後れを見せたら躊躇せず撃て、支援射撃の最終弾と供に突撃だ、私に続け」と自らが先陣を切って逆襲突撃、2キロ半を全速力で駆け抜け、北朝鮮人民軍を撃破した。
なお、配下の部隊は、消耗により大部分は訓練経験の無い農民達が主体になっており、一方北朝鮮軍はソ連軍顧問により鍛えられ、極秘に援軍された八路軍経験者を中心に編成された、精強な正規部隊であった。要するに、無訓練の民兵を率い精強な正規軍を正面から撃退したという、近代軍史には例を見ない勲功であった。(1950年8月21日) 1950年9月の仁川上陸作戦(クロマイト作戦)の成功とそれに続くソウル奪還後は一転して反撃に転じ、10月20日に平壌一番乗りを果たした。
米軍からはWhity(ホワイティ)という愛称でも呼ばれていた。彼は当時の韓国が置かれている状況を冷徹に判断し、米軍からの信頼をえて、米軍を朝鮮戦争から撤退させないためには、自らが疲労困憊の極まで達する姿を彼らに見せることで、初めて可能であると判断し実行した。そのため、米軍指導者からも彼は信頼され、平壌一番乗りもわざわざ米軍指導者が彼に手柄をあげさせようとして、進軍を一時停止したためと言われる。
平壌解放後、速やかに追撃体制に移行し、水豊ダム方面へ前進、北鮮軍を捕捉するも雲山付近にて中共軍と遭遇、これと交戦し窮地に陥っていた友軍を巧みな指揮で救援・撤退を支援した。このときの韓国第1師団には米軍から野砲大隊と迫撃砲大隊が臨時配属されており、ミルバーン米第1軍団長は「白師団は砲兵力さえ付け加えれば米軍師団と同等に戦える」と評価しており事実、火力を有効に活用し西部戦線をおける韓国軍の殿をミルバーンの期待通りに果たした。
中華人民共和国義勇軍参戦後は、広がった前線を的確に把握し、迅速に38度線に撤収することに成功。この朝鮮戦争の中で、第一師団長から第一軍団長、52年には第二軍団長、同年陸軍参謀総長となり、これまでの功績を称えられ大韓民国軍初の大将の位に列せられた。
朝鮮戦争終結後は、1954年第一野戦軍司令官、1957年再度陸軍参謀総長、1959年には連合参謀会議議長に就任、韓国軍の近代化に努めた。しかし金鍾泌を中心とする若手将校達による清軍運動により陸軍を除隊に追い込まれた。
軍を退役後は、外交官として中華民国・フランス・カナダ大使を歴任。帰国後は朴正熙大統領政権で交通部長官に就任。ソウルの地下鉄建設、また1970年のよど号ハイジャック事件の解決に尽力した。
政界引退後は実業家となり韓国総合化学工業株式会社社長として辣腕を振るった。1980年に退任。
1995年、日本国勲一等瑞宝章を受章した。
軍人としての白は朝鮮戦争での功績もあり高い評価を与えられているが、それ以外の面では『チニルパ』、それも大日本帝國の植民地支配に積極的に協力した所謂『満州人脈』の一員とされているため、民主化が達成された現在彼の人気は年々下がり気味である[要出典]。