王政ローマ
近所セレブを即検索
永久無料セレブマップ

[Wikipedia|▼Menu]
王政ローマ
Regnum Romanum

前753 - 前510

テヴェレ川沿いの7つの丘

公用語ラテン語
首都ローマ
国王
前753 - 前717ロムルス
前535 - 前510タルクィニウス・スペルブス

変遷
初代ローマ王としてロムルスが即位紀元前753年
第7代国王タルクィニウス・スペルブスが追放され、共和政へ移行紀元前510年

王政ローマ(おうせいローマ)は古代ローマ当初の政体である王政期を指す。後に共和政ローマ(古代ローマ共和国)、帝政ローマ(ローマ帝国)となる。共和政期の初期とあわせて、歴史よりも伝説の時代と捉えられている。
目次

1 歴史

2 建国伝承

3 制度

4 ローマの王の一覧

4.1 ロムルス

4.2 ヌマ

4.3 トゥッルス・ホスティリウス

4.4 アンクス・マルキウス

4.5 タルクィニウス・プリスクス

4.6 セルウィウス・トゥッリウス

4.7 タルクィニウス・スペルブス


5 王政の終焉

6 ローマの王と在位

7 参考文献

//


歴史

伝承では後述するように紀元前753年ロムルス王が建国し、紀元前510年(または紀元前509年)に第7代タルクィニウス・スペルブス王が追放されるまで続いたことになっている。ただし、当時のローマは文字を持っていなかった可能性があり、王の存在は主に口承で伝えられ、確実な資料がないとされてきた。ローマという都市名も初代王ロムルスにちなむとされるが、この王については存在すら疑問視される向きもある。ローマという言葉は、エトルリア語またはサビニ語で意味のある言葉だという見解がある。

ところで、最近の考古学の成果によると、紀元前17世紀にはすでにローマのカピトリヌス丘などに最初の集落が存在しており、また近年パラティヌス丘北東部で発見された遺構は紀元前730年から720年ごろのものとされ、これをローマ市壁の遺構であるとする説も提起されている。したがって、ロムルスの伝説にも真実味があると考えることもできる。

「王」はラテン語で rex と綴る。伝統的に王のうち、ロムルスを含め最初の4代はラテン系またはサビニ系で、あとの3代はエトルリア系とされている。しかし、これらの王には存在すら疑問視される者もいるし、その人数も定かではない。実際にいた初期の王の事績を何人かの王たちのものとして記録しているという研究者もいる。また末期のエトルリア系の王は4人以上いたと考える研究者もいる一方、かつてはタルクィニウスの名を持つ2人の王は実際は1人の王の事跡を分けたに過ぎないと主張されてもいた。しかし考古学的な考証から、最後の3人の王に関する伝承は、変形されているとしても、何らかの歴史的事実を反映していると考えられている。


建国伝承狼の乳を吸うロムルスとレムスの像

ローマ建国までの伝説は、次のようになっている。

トロイア戦争で敗走したトロイア人の末裔(アエネイアスの息子アスカニウスら)が、イタリア半島に住みついた。この都市をアルバ・ロンガという。時代が下り、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられたウェスタの巫女とされる。ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わった。シルウィアは双子を産み落とすが、怒った叔父の王は双子を川に流した。双子はに、その後羊飼いに育てられ、ロムルスレムスと名づけられた。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。この丘、パラティヌスに築かれた都市がローマであった。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域とした。


制度

初代ロムルス王以来、多くの一族を抱える有力者は貴族(パトリキ)として終身の元老院を構成し、王の助言機関とした。


■可愛い娘探セル■
■18歳以上「入口」■

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki