熊谷 弘(くまがい ひろし、1940年6月26日 - )は、日本の政治家、官僚。
衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)、通商産業大臣(第57代)、内閣官房長官(第57代)、保守新党代表(初代)を歴任。
目次
1 概要
2 略歴
2.1 一橋大・通産官僚・政界入り
2.2 自民党離党
2.3 小沢との闘争
2.4 与党への回帰
3 経歴
4 政歴
5 外部リンク
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静岡県磐田郡水窪町(現浜松市)出身。座右の銘は「初めに行動ありき」である。
長野県飯田高等学校を経て、1964年に一橋大学社会学部を卒業し、通商産業省に入省。同期に細川恒、中田哲雄、藤原武平太など。大臣官房秘書課、中小企業庁長官官房総務課などを経て、1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党から立候補し当選する。
1983年の総選挙で衆議院議員に鞍替えし当選。当選後は、田中派を経て、竹下派に所属する。第2次中曽根康弘内閣では経済企画政務次官を務めた。
熊谷にとって大きな転機となったのは、1992年、竹下派が分裂し羽田孜・小沢一郎率いる改革フォーラム21(羽田・小沢派)に参加したことである。熊谷は小沢側近として派閥の運営を取り仕切った。羽田・小沢派は1993年、宮沢内閣不信任案に賛成し自民党を離党、新生党を結成した。不信任案可決による解散総選挙で自民党は過半数に届かず、その後の非自民非共産各党により成立した細川護煕内閣で通商産業大臣に就任した。通産大臣時代、棚橋泰文(現衆議院議員・棚橋祐治元通商産業事務次官の長男)の情実人事問題で、内藤正久産業政策局長を更迭。背景には「一六戦争」に絡む省内の人事抗争があったとも言われる。
1994年、細川内閣の総辞職により成立した羽田内閣では内閣官房長官に横滑りする。
同年12月に結成された新進党に参加するが、羽田内閣がわずか2ヶ月で退陣して以来、小沢との間に微妙な距離が生じ、そこに目をつけた自民党の野中広務の意向を受け、反小沢の急先鋒となった。1996年、総選挙での新進党敗北後、首班指名に党首である小沢の名前を書かず新進党を離党した。この時離党届を小沢に提出した熊谷は「小沢一郎との闘争を続ける。」と述べた後、除名処分となった。自民党復党も検討したが12月に羽田や奥田敬和などと太陽党を結成する。
新進党分党後の1998年、フロム・ファイブや国民の声と民政党を結成し、その後菅直人・鳩山由紀夫率いる民主党に合流した。民主党では、幹事長代理、国会対策委員長、副代表などを務めた。しかし菅直人とは犬猿の仲として知られていた。
2002年、鳩山が党代表を辞任したことを受けた代表選で、自ら推した岡田克也が菅に敗れた。菅体制で非主流派に転じた熊谷は、同じ1983年衆院初当選組で自民党時代からの旧知の仲であった保守党幹事長・二階俊博と急接近した。民主党での活動に限界を感じた熊谷と、結党以来国政選挙で勢力を減らす党の状況を打開したい二階の思惑が一致した。同年12月、民主党を離党した熊谷は二階と保守新党を結成、自らは党首である代表となり、与党入りした。なお民主党は離党届を受理せず、除名処分とした。
しかし、野党から政権に参加したいがために離党、与党入りしたという批判も重なって当初目指していた民主党保守系の受け皿になる構想は全く進まず、党勢は伸長しなかった。自民・公明両党に埋没したままで臨んだ2003年の総選挙では、宿敵とする小沢が合流した民主党が躍進、保守新党は惨敗し熊谷自身も落選した。晩年の熊谷は、10年間で7つもの政党を渡り歩いた経緯から、自己保身の権化のような受け止め方をされ、自身が党首をつとめていた保守新党は「保身党」などと揶揄されるほどであった。
熊谷を破ったのは、保守系無所属の城内実で、実質総裁派閥である清和政策研究会の支援を受けていた。